唇が10㎝裂けても大丈夫
また、野生動物は自然治癒力が優れているのだ。動物病院に獣医は4名いるが、新人の吉本獣医が一人で当直した日に、モウコウマの急患の連絡が入った。駆けつけると飼育場の寝室で一頭のモウコウマが3本脚で立っている。柵に前脚を引っ掛けたらしい。すぐに先輩の医師に来てもらい麻酔で眠らせ、骨折した前脚にキブスを巻く治療を施した。
人の手で交配したサラブレットは、脚の骨折は即、安楽死というイメージだが、キブスをした野生のモウコウマは、2〜3ヶ月で完治し、今は4本脚で飼育場を走り回っている。
「これは縫わなければダメですよね……」
彼が多摩動物公園の獣医になって2年目のことだった。「チンパンジーの唇が裂けたんですけど」という飼育員からの連絡で見に行くと、ケンタという個体の唇が、10㎝ほどパックリ裂けている。仲間同士のケンカが原因だ。吉本獣医は大変なケガだと思ったが、「これくらいなら縫わなくても治るよ。抗生剤と痛み止めを出しておいて」写真を見た係長は、大したことではないという感じの口調だった。
半信半疑で調合した内服薬を飼育員に渡し、飼育員が餌に混ぜて与えていると、係長の言葉通り、ケンタの唇の傷口はいつの間にか、くっつき完治していた。
「野生動物の自然治癒力の強さを、今更ながら見せつけられた思いでした」と、吉本獣医は言う。
獣医は動物たちの嫌われもの
このチンパンンジーのケンタには、後日談がある。ケンタは群れのトップだったが、世代交代でトップの座から降り、精神的に落ち込んで”ウツ状態“に陥った。「食欲がない、痩せてきた、便が柔らかい」と、飼育員から聞いていのだが。
日々、動物の世話をする飼育員はある程度、担当の動物との信頼関係を築いている。だが、獣医は動物の世話をすることもなく、時々姿を見せて嫌なことをして去っていく。動物としては良い印象を持っていない。特にチンパンジーのような頭の良い動物は獣医嫌いで、吉本医師に唾を吐いたり餌の小松菜を投げたり。
獣医は来てほしくないと思われているし、そもそも野生動物はできる限り放っておくのが原則だ。多少は気になったがケンタのウツ状態は、チンパンジーの社会での出来事が原因だし個体の自然治癒力も高い。すぐに元気になるだろうと、チンパンジーの展示舎から足が遠のいていた。ところが飼育員からの連絡で駆けつけた時、ケンタは痩せ細っていて、やがて衰弱死する。
「ケンタが気になっていたのだから、もっと様子を見に行くべきでした。手をかけ過ぎても、またかけなさ過ぎてもまずい。治療をするかしないか、その境目を見極めないといけない」
弱みを見せると敵に狙われる、そんな可能性がある野生動物は、ケガや病気でも症状を隠すと言われている。
問題のある動物の状態を常に推察すること。野生動物を診る動物園の獣医はそこが大事だと、強く思った出来事だった。以下、後編に続く。
取材・文/根岸康雄
http://根岸康雄.yokohama