焼酎ブームが後押し
1976年、鹿児島県垂水市で焼酎蔵を営んでいた八木合名会社が休業を宣言した。廃業ではない。自力で焼酎を仕込むことはしなくなったが、他の蔵から原酒を買い付け、自分の蔵の銘柄として売り続けることで、復活の機会をうかがっていた。
それから27年。世の中に焼酎ブームが沸き起こった。とくに芋焼酎の人気は一気に高まり、全国の視線が鹿児島に注がれた。巨大マーケット、大阪や東京がこちらを向いた瞬間だった。
「今が思いを実現するときじゃないのか?」
蔵の再興を常に夢に描き続けていた蔵の3代目、八木栄寿さんははやる気持ちを抑えきれなかった。しかし、実際に再興するとなると莫大な資金と労力が必要になる。焼酎ブームは続くと限らない。仮に再興しても、買ってくれる人がいなければ、借金が残るだけ。不安が不安を呼んだ。
後押ししてくれたのは父だった。まだ何も相談していないのに「悔いのないようにしろ」と見透かしたような言葉をかけてくれた。
「人生に悔いを残すな。必要なくても受け取れ!」
100万円を差し出してきた友もいた。心の揺れが止まった。
捨てる神あれば拾う神あり
迷いがなくなればあとは突っ走るのみ。仕事は妻に任せ、蔵の再興のための申請に取り掛かる。これが思った以上に難題だった。なんせ相手はお役所。説得に説得を重ね、徹夜で書類を何度も書き直し必死に動いた。最初はなかなか話を聞いてもらえなかったが、熱意が通じたのか、鹿児島県が動いてくれた。
「わかりました。中小企業経営革新支援法を適用しましょう」
天にも昇る気持ちだった。支援法が適用されれば、政府系金融機関からの低利融資も受けられると思ったからだ。ところが
「あなたの夢に付き合う気はない」
足繁く通い熱意を伝えたものの、政府系金融機関の若い担当官にバッサリ切り捨てられてしまった。
「なぜなんだ……」
一方で支援をすると言っておきながら、一方はその道を閉ざそうとする。絶望的な気持ちのなか、それでも何とか前に進むしかない。するとどうだろう、
「やりましょう、前向きに対処しますよ!」
時を同じくして地元金融機関の支店長より連絡が入った。まさに拾う神。再興のための事業計画、資金は何とかメドがたった。
理想の場所
問題は場所だった。元の場所は市街地にあるものの、自分の理想の場所とはいいがたい。栄寿さんは同じ市内でも、自然の豊かな猿ヶ城渓谷に移したいと考えていたが、用地を求めるのは難しかった。何より、山間の土地だけに平地が少ない。すぐに行き詰まった。
「オレの山に連れて行くからついて来い」
叔父が声を掛けてきた。案内された場所は希望通りの猿ヶ城渓谷だった。うっそうとした竹林や杉林のなかにわずかに開けた土地もある。嬉しさのあまり身震いが止まらなかった。
「好きに使え、いけんでん(どうにでも)使わんか!」
叔父の言葉に身が引き締まった。
八木さんの蔵が復活する! 噂は徐々に全国に広まり、興味を持った酒販店からの問合せや訪問、電話や手紙での応援も日ごとに増えていき、支援の輪も広がった。家族や友人、見知らぬ人たちまで、多くの人の情に支えられていることを実感した栄寿さんは「一生懸命焼酎を造ろう」と心に誓い準備を急いだ。そんな時だった。
「お父さんがやるのなら、僕もやるよ」
親父の熱い情熱、頑張る姿に感じるものがあったのだろう。高校卒業間際の次男・大次郎さんが自身の将来を決断した。父親にとってこんなに嬉しいことはない。さらに半年後、岡山で大学生活を送っていた長男の健太郎さんも、蔵を手伝いたいと中退して戻ってきた。
地元の友人たちも手弁当で応援に来てくれた。なかには勝手に勤めを辞め、有無も言わさず蔵子に転身してきた者もいたほどだ。