心底うらやましかった、イギリスにおけるロックの大いなる存在感
話はそれるが中高校生の頃、日本のメディア=評論家はアーチストや作品をネガティブに評することはほとんどないが、英米は良くも悪しくも思う存分に書きまくるという、彼我の土壌の違いを感じていた。たとえばレッド・ツェッペリンの『Ⅲ』が英米で酷評されたのは有名なエピソードだが、日本ではそんなことはなかった。
僕はデビューシングル「炎のロックンロール」を初めて聴いたとき、なんてストレートでノリのいい曲なのだろうと心躍った。同時に、どうしてこれがイギリスのメディアでは受け入れられないのだろうと、不思議に思ったものだ。我がロック仲間達も同感で、ましてやアルバム『戦慄の王女』を聴くと、デビュー時からの多様な音楽性に驚いた。
その心は、こういうことではと推理してみた。デビュー直後のクイーンは、ライブの実力が足らなかったのではないだろうか。レコードなら録り直しがきくが、ライブはその場の一発勝負。当時の日本は男であれ女であれ、概して顔さえ良ければ人気が出た。だが英米では、いかに見かけが良くても実力が伴わなければ評価されない。クイーンのライブを見たイギリスのメディアは、その演奏力を評価せず、スポットを当てなかった。だからリスナーが知る機会は少なく、知られなければ人気は出ようがない。
かたや日本では『ミュージック・ライフ』が、クイーンを積極的に知らしめた。日本の男女は同誌をきっかけにレコードを買い、音楽も気に入りファンになった。日本でいち早く火が付いたのは、こういう構図からでは。ただし僕は、クイーンの“レコード”を聴いたイギリスのリスナーは、受け入れていたと思っている。なぜなら幾多の名バンド・名盤を生み出した、偉大なるグレイト・ブリテンのロック・ファンが、クイーンの良さに気づかないなんて考えられない。
クイーンのイギリス・デビューは73年の夏、日本人がその圧巻のプレイに魅了されたのは75年の春だ。この間にクイーンの演奏力は、凄まじい進歩を遂げたのだろう。クイーン初来日の年に僕は晴れて大学生となり、遠く栃木県から電車で3時間かけて東京に来るのではなく、都内の下宿から武道館に行くことができた。一番印象に残っているのは、コンサート途中でフレディのシルエットが浮かび、ジャパニーズ着物姿のフレディが現れたシーンだ(確か振り袖だった)。フレディの日本贔屓は有名だが、この時は初来日、日本に来てからこのアイデアが生まれたのだろうか。
来日の度にコンサートに行き震えたが、1992年にロンドンのウェンブリー・スタジアム(ライブエイドの会場)で開かれた「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」は、ある意味来日公演以上に思い出深い。これぞ役得で、当時在籍していた『ビッグコミックスピリッツ』の取材編集者として、会場に入ることができたのだ。ロバート・プラント、デビッド・ボウイ、アクセル・ローズ、エルトン・ジョン、ジョージ・マイケルetc.そうそうたる顔ぶれがクイーンの曲を歌い、フレディを偲んだ。
そして翌日の新聞報道に驚いた。イギリスの何紙もの有力新聞(日本なら朝読毎日経に相応)が、コンサートの模様を一面トップで報道したのだ。日本を代表する音楽が歌謡曲なのか演歌なのかJ-POPなのかはわからないが、いずれであれ音楽に関するイベントを、日本の有力新聞が一面トップで報道するなんてありえない。“イギリスにおけるロックの大いなる存在感”が、心底羨ましかった。