会社勤め後に留学・独立などでキャリアチェンジ
学生の頃に起業、20代で起業というと、一般の会社員とは別世界の話のように聞こえるが、学校を卒業後、普通に企業に就職し、働いている中で努力してキャリアチェンジし、30代で大成した人たちも多い。
●三木谷浩史(楽天創業者)
プロ野球球団やプロサッカーチームを持ち、携帯電話事業にも参入する大企業となった楽天を創業した三木谷浩史氏(1965年生まれ)だが、大学を卒業後、日本興業銀行(現・みずほ銀行)に入行している。1993年(28歳頃)にハーバード大学経営大学院に留学し、MBAを取得して帰国。この米国滞在中に起業家への夢が芽生えたという。また1995年、阪神・淡路大震災で故郷の神戸が瓦礫の山と化し、敬愛していた叔父叔母を失ったことが人生観に大きな影響を与えた。同年(30歳頃)、興銀を退社し、コンサルティング会社のクリムゾングループを設立。1997年、1997年に株式会社エム・ディー・エム(現・楽天)を設立し、インターネット・ショッピングモール「楽天市場」を開設した。
●南場智子(DeNA創業者)
プロ野球初の女性オーナーとなり、その手腕が一目置かれている南場智子氏(1962年生まれ)もハーバード大学でMBAを取得している。しかし、その理由は必ずしも前向きなものではなかったようだ。大学卒業後、 マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク・ジャパンに入社するものの、厳しい仕事と自分の能力を思い通り発揮できない状況に、精神的、肉体的に疲弊し、2年後の1988年(26歳頃)に退職し、逃げるようにハーバード・ビジネス・スクールに入学したと本人は語っている。ハーバード大学でMBAを取得した後、再び日本のマッキンゼーに戻り、最後の仕事と思って取り組んだ仕事で成功を収めた。その後は順調に昇進を果たし、34歳でマッキンゼー日本支社のパートナー(役員)に就任。1999年(36歳頃)にDeNAを設立した。
●森川亮(LINE元社長)
スマホユーザーなら誰でも使っているLINE。LINEが日本中に拡大していくときに社長だったのが森川亮氏(1967年生まれ)だ。森川氏は大学卒業後、1989年に日本テレビ放送網に入社。1999年には 青山学院大学大学院国際政治経済学科修士課程(MBA)を修了し、2000年(33歳)にソニーに入社した。しかし、翌年にはハンゲームジャパン(後のNHN Japan、現・LINE)に入社。そこで代表取締役社長にまで上り詰めた。
●松田公太(タリーズコーヒージャパン創業者)
日本のタリーズコーヒーの創業者で参議院議員にもなった松田公太氏(1968年生まれ)は、子どもの頃、父親の転勤で海外生活を送り、1986年に日本に帰国して大学に入学。1990年、大学を卒業し、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に入行する。タリーズコーヒーを展開するのは、1995年に親友の結婚式で渡米した際にスペシャルティーコーヒーに出会ったのがきっかけだという。
1996年(28歳頃)、起業するため三和銀行を退行。シアトルのローカルコーヒー店であったタリーズの経営者から日本での1年間の独占契約権を得て、東京・銀座にタリーズコーヒー1号店を開店した。開業資金のために借金7000万円を背負い、返済するために朝から晩まで店に立ち続けたという。1998年(30歳頃)タリーズコーヒージャパンを設立し、代表取締役社長に就任した。
●中澤優子(UPQ創業者)
カシオ計算機で携帯電話の製品企画をしていた中澤優子氏(1984年生まれ)は、退職後、カフェの経営や経済産業省フロンティアメイカーズ育成事業の海外派遣を経て、2015年、30歳のとき家電メーカーUPQ(アップキュー)を設立。低価格のスマートフォンや4Kディスプレイ、電動バイクやバッグなど、家電製品を中心にユニークな商品の企画・販売を行う。UPQは製品の企画・販売のみを行い、設計・デザイン・生産管理などは他社がサポート、製造は中国などの受託製造企業へ委託するというスタイルで、わずか2か月で自社製品第一弾を企画し、17種類24製品を一度にリリースして注目を集めた。
●勝間和代(経済評論家)
テレビ番組の出演、書籍執筆などマルチに活躍している勝間和代氏(1968年生まれ)。高校時代から公認会計士試験の勉強を始め、23歳で公認会計士としての登録が可能となる3次試験に合格するなど、若いうちから能力を発揮し、太田昭和監査法人(現・EY新日本有限責任監査法人)、アーサー・アンダーセンに会計士補として在籍した。その後も、大手会計事務所、外資系銀行、証券会社、コンサルティング会社に在籍するが、投資顧問業および経営コンサルタントとして独立開業するのは2007年(39歳頃)だ。
●見城徹(幻冬舎創業者)
見城徹氏(1950年生まれ)は大学卒業後、廣済堂出版に入社。自身で企画した『公文式算数の秘密』が38万部のベストセラーになる。1975年(25歳頃)、角川書店に入社。『野性時代』副編集長を経て、『月刊カドカワ』編集長に。編集長時代には部数を30倍に伸ばしたという。また、5つの直木賞作品を担当し、数々のベストセラーを手がけた。1993年(43歳頃)、取締役編集部長の役職を最後に角川書店を退社し、部下5人と幻冬舎を設立、代表取締役社長に就任した。
●安田隆夫(ディスカウントストア「ドン・キホーテ」創業者)
安田隆夫氏は1949年生まれ。1973年、大学卒業後、不動産会社に勤務したが倒産。1978年(29歳頃)、東京杉並区に雑貨店「泥棒市場」を自分の持っている資産を全て注ぎ込んでオープンした。この店舗で行った深夜営業スタイルが、ドン・キホーテの原型となる。1980年にジャスト(現・ドン・キホーテ)、1982年にリーダーを設立。1989年には第1号店となる「ドン・キホーテ」府中店を開店した。
●深澤直人(プロダクトデザイナー)
au携帯電話「INFOBAR」シリーズのデザインを手がけていることで、一般にもよく知られているプロダクトデザイナーの深澤直人氏(1956年生まれ)。多摩美術大学芸術学部プロダクトデザイン科を卒業し、諏訪精工舎(現・セイコーエプソン)に入社する。1989年に諏訪精工舎を退職し、アメリカのデザインコンサルティング会社ID TWO(現・IDEO)に入社したのは33歳頃だ。1996年、IDEO Japanを設立し、日本支社長に就任。2003年(47歳頃)に独立した。
●閑歳孝子(Zaim代表)
家計簿アプリ「Zaim」は、閑歳氏(1979年生まれ)が趣味の一環として作っていたものだ。大学卒業後、日経BPで記者・編集業務を3年半経験。その後、ITベンチャー企業のディレクターに転身し、平行してプログラミングを独学する。2008年、BtoB向けのツールを作る企業にエンジニアとして転職。業務外の時間に個人で家計簿アプリZaimを開発し、2011年(32歳頃)リリース。2012年、会社化し、代表取締役に就任した。
●柳井正(ファーストリテイリング会長 兼 社長)
ユニクロを世界規模のブランドに育てたファーストリテイリングの会長 兼 社長である柳井氏(1949年生まれ)。実は、家業を継いで大きくしたものだ。大学卒業後、父親の勧めでジャスコ(現・イオンリテール)に入社するものの、10か月で退職。実家の小郡商事に入社する。当時、郊外型紳士服店が台頭していたが、柳井氏はそれとは異なるカジュアル衣料店の全国展開を目指した。1984年(35歳頃)6月、「ユニーク・クロージング・ウエアハウス(Unique Clothing Warehouse、略称ユニ・クロ)」の第1号店を広島市に開店し、同年9月、父親の後を受け小郡商事社長に就任した。その後、中国地方を中心に店舗を拡大し、1991年、ファーストリテイリングに社名変更した。
●栗原はるみ(料理研究家)
栗原氏(1947年生まれ)が料理研究家になったきっかけは、結婚、出産後、キャスターである夫の「僕を待つだけの女性でいてほしくない」という言葉だったという。自分にできることで思いついたのが料理。近所の主婦たちに料理を教え、主婦仲間と中華料理のシェフに料理を習いに行ったという。栗原氏が36歳頃、自宅に遊びに来ていたテレビ局関係者が栗原氏の料理の腕前に驚き、料理番組の裏方の仕事を紹介されたことが現在の仕事につながる。1992年(45歳頃)、「ごちそうさまが、ききたくて。」がミリオンセラーとなり、1994年刊行の続編「もう一度、ごちそうさまがききたくて。」と合わせて200万部という、料理本としては異例のセールスを記録した。
さまざまな成功者の経歴を調べてみて分かったのは、天才肌で早熟で、早くから成功する人もいるが、会社員時代に実力をつけて、満を持して独立する人の方がずっと多いということだ。そういう人の多くは、何かのタイミングで勉強するために大学に戻ったり(留学したり)、転職したりしている。その機会を逃さないということは、毎日を漫然と過ごしているはずがない。日頃から熱心に働いて、勉強して、実力を蓄えてきたはずだ。ここでは紹介していないが、猛勉強してハーバードのビジネススクールに通ったという人もいた。
だからこそ、将来、転職や独立を考えているなら、まずは今いる場所で精一杯努力し、認められることが大切なのではないか。そんなことを感じたトップ20人の経歴だった。
取材・文/房野麻子(S)