■ゾウの前ではベテランのつもりで
国内のアジアゾウでは最高齢のオスのアヌーラは普段、おとなしく温厚なゾウなので、比較的思い通りにこちらいうことを聞いてくれます。若いオスゾウのヴィドゥラは食いしん坊なので、エサがあればトレーニングはやりやすい。問題はメスのアマラ。アマラは気持ちにムラがあって、エサにあまり執着がない。気が乗らない時は、トレーニングに集中してくれません。特に後ろ足を窓に乗せさせようとする時、アマラを正しい位置に持っていくのが難しい。これでいいのか、僕の中で迷いが生じてしまう。
「人の気持ちがゾウには伝わる。お前が迷ってオドオドしていたら、ゾウは何をしていいのかわからなくなるだろう」と、班長には常に言われています。
人が動いてゾウがついていく。アマラが僕に注目してくれるためには、どうしたらいいのか。エサにあまり執着がないので、エサに重きをおくのはやめよう。アマラに対する時はあらかじめ手順を全部決めて、頭に叩き込んでおく。使うエサも事前に決めて用意をしておく。作業を始める前にアマラの目をしっかり見て、「アマラ、こっちだよ」と、僕の意思を伝えて。すべてにおいて躊躇なくテンポよくパパッと動く。
「ゾウの前ではベテランのつもりでいろ。俺は経験があって、お前のことは全部わかっている。お前がどうやるかもわかっているよと、そのぐらいの雰囲気を出さないとダメだ」これも、班長のアドバイスです。
ゾウの飼育を担当して6年目、アマラもだいぶ僕の言う通りにやってくれますが、雨の日は部屋の扉を開いても外に出たがらない。運動場に出さないと部屋の掃除ができません。そんな時は6枚切りの食パンを一枚、アマラの見えるところに投げてやる。すると渋々、部屋から出てきます。エサは多く使えばいいというものでもなくて、ゾウの気持ちを乗せるように工夫する、それも飼育員の仕事です。
■ゾウにも不機嫌な時期がある
また、アジアゾウのオスには「ムスト」と呼ばれる荒れる時期があります。オスのヴィドゥラは若いので、本格的なムストはまだ見られませんが、アヌーラには2月と9月の年に2回、1ヶ月ほど続きます。ムストの時期のアヌーラは人に例えれば人相が悪くなって、何を考えているのかわからないような時もあります。
こめかみに分泌液が出る穴があって、そこからジンギスカンを食べる時にプンとする、あの臭いに似たような動物特有の臭いを放します。野生ではムストが来ると他のゾウが敬遠するので、繁殖に有利だと言われていますが、なぜムストの時期があるのか、詳しいことはわかっていません。
「ゾウがムストの時は関わり方を変える。ムストで興奮状態の時に、たまたまお前が声をかけたら、冷静になった時も『こいつがいるだけでイライラする』と、悪いイメージを持たれてしまうかもしれない。ゾウにそう思われるような機会を作るな、ヘンに関わるな」これも班長に言われたことです。ですからアヌーラがムストの時は朝、ゾウ舎で「おはよう」と声をかけることも控えます。足のケアもゾウの状態を見て、簡単なメニューする時もあります。
ムストの時期は部屋の壁にガンガンぶつかってきたり、柵の間から鼻を伸ばしてきたり。落ち着いて対応しますが、鼻で叩かれたり鼻でつかまれたら、命に関わるケガにつながります。それはムストの時期だけに限りません。
普段、温厚でおとなしいアヌーラも、面白がってちょっかいを出してくる時があります。常にゾウの動きに気を配っているつもりでも、ふっと柵の間から鼻をヌーと伸ばしてきて、ちょっと驚く時もある。そんな時は「お前の油断だよ」と、班長に声をかけられます。ゾウは人の感情をよく見ている。そしてこちらが油断した時、“今だ”とちょっかいをだしてきます。それが事故につながる。そういう動物だと、常に頭に入れておかなくてはダメだと。
僕から見るとアジアゾウとアフリカゾウは、全く違う生き物ですね。アフリカゾウはアジアゾウよりも体が大きくて、立派な牙もあって、見た目にゴツゴツしていて恐竜のようじゃないですか。その点、アジアゾウは丸っこくって可愛らしい(笑)。
最初の赴任先の上野動物園では、モルモットやウサギやふれあい動物の飼育を担当しましたが、ゾウはいざという時に捕まえたりはできませんし、モルモットとはまったく違います。でも、こちらの行動一つでゾウの態度が変わってくる。ゾウの気持ちをいろいろと考え、トレーニングをすると、人に媚びない、見上げるようなゾウが、自分の思い通りに動いてくれる時があります。その瞬間は野生動物と気持ちが通じ合えたなと実感が持てる。ゾウは可愛いですよ。
取材・文/根岸康雄
http://根岸康雄.yokohama