■汗が浮き出る写真
では、アナログとデジタルとで何か違いは出てくるのだろうか?
坂野氏は2枚の写真を出した。どちらもまったく同じ被写体の画像だ。
線路を走る蒸気機関車の写真。その画質の違いは、ひと目で分かった。一方は白い蒸気が機関車の煙突から湧き出て、周囲は綺麗な新緑の景色。もう一方はどこかくすんでいて、全体的に茶色っぽい。はっきり言って、濁った色合いの画像だ。
「どちらがアナログプリントか、お分かりですか?」
坂野氏の質問に、筆者は若干の時を置いてこう答えた。
「色がくすんでいるほうですね。こちらは周囲の埃っぽさが再現されています」
そうなのだ。一見して新緑が映えている綺麗な写真は、デジタルプロセッサーの画像エンジンが補正した画像である。こちらの写真の機関車は、純白の煙を噴出させる。これは現実にはあり得ない。石炭から発生する煙が純白なはずはないからだ。
もうひとつの例として、坂野氏はこんな写真を筆者に渡した。東南アジアのとある国で撮影したものらしく、そこにはふたりの男が写っている。片方は椅子に座って煙草を吸い、もう片方は何やら忙しく歩き回っている様子だ。
「この立っている男をご覧なさい。白いシャツを着ているでしょう?」
坂野氏にそう言われ、筆者はあることに気づく。
一方の写真を見ると、男のシャツが汗まみれだということが分かる。だがもう一方の写真は、その様子があまり見受けられない。つまり前者がアナログプリント、後者がデジタルプリントなのだ。
■「汚いもの」を表現する
デジタルカメラやプロセッサーに搭載されている画像エンジンは、あまりに優秀過ぎる。
それゆえに「邪魔なもの」や「汚いもの」を修正する方向に動く。だから空は青空に、煙は純白に、草木の葉は万年新緑になってしまう。また、髪の毛のような微細な線を「微細な線」として表現することはない。それをはっきりとくっきりと表現してしまうが故、結果的に大雑把な描写になるのだ。
報道写真ならば、これで問題は一切ない。そこにあるものを分かりやすい形で読者に伝えればいいからだ。しかし芸術写真の場合は、被写体の細かい動作やディティール、さらにそれらが表す心情などをすべてすくい取らなければならない。先述の白いシャツの男も、汗に濡れていることが彼の労働時間の長さを自ずと説明している。
以上の理由で、アナログプリントは今後もその命脈を保ち続けるだろうと筆者は見ている。