◎宅急便のアイデアに取締役は全員反対
宅配便は今でこそ私たちの生活に欠かせないものになっているが、『クロネコヤマトの宅急便』が76年に登場するまでは、C to C(C=コンシューマー、個人消費者同士の取引)は、ビジネスにならないと考えられていた。あくまで運送業は、B to B(B=ビジネス、企業間取引)が基本だった。
しかし既にB to B市場は、頭打ち。何とか打開できないものか。当時の小倉昌男社長は、ニューヨークで見たUPS(米国の運送会社)の集配車と、吉野家が牛丼という単品に絞ったサービスを提供しているのを見て、「個人宅配市場にターゲットを絞る」ことを思いつく。
だが前例のないアイデアに、取締役は全員猛反対。小倉社長はそれにめげず、サービス開発を続行。新事業のコンセプト(宅急便開発要綱)をまとめる。
(1)不特定多数の荷主または貨物を対象とする
(2)需要者の立場になってものを考える
(3)他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ
(4)永続的・発展的システムとして捉える
(5)徹底した合理化を図る
これは今に続く考え方である。
◎スキー宅急便のピンチに小倉社長が下した決断
だがサービス初日の1月20日。フタを開けてみると、取扱個数はたった11個だった。北村氏が振り返る。
「私が入社した当時、小倉社長は健在でした。社長の口癖は、『サービスが先、利益は後』というもの。サービスが良ければ、利益はあとからついてくる、と考えていたのです」
北村氏が入社した83年、長野県の社員のアイデアで、「スキー宅急便」が始まる。ところが翌年の暮れ、大きなトラブルに見舞われる。関越自動車が大雪で通行止めとなり、スキー配達が滞ってしまったのだ。
「私はこの時、現場に配属されていました。この時の小倉社長の指示は、今でも忘れられません。天災だと諦める私たちに向かって、対策を怠った君たちが悪いと言い放ち、『雪国で雪が降るのは当たり前。これは人災だ!』と一喝したのです」
小倉社長は、交通費、スキー用具などすべて弁償するように指示した。「費用はいくらかかっても構わない」と社員の背中を押した。需要者の立場になってものを考える、というコンセプトを億単位のお金をかけて実践したのである。
◎官僚が間違っていれば臆せずして戦う
『クロネコヤマトの宅急便』はその後、右肩上がりで成長していく。宅急便スタートの8年後の1984年には取扱個数が1億個、93年には取扱個数が5億個を突破した。
だがその一方で、成長の前に立ちふさがったのは、国による規制という壁である。当時は利用する道路ごとに「路線免許」が必要だった。路線バスと同じ扱いである。ところが、この路線免許を運輸省(現・国土交通省)に申請しても、地元の運送業者の反対で、許可が下りない。免許によっては、何年も審査が遅れていた。
「宅急便は『他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ』ことを目指していましたが、それが行政によって思うようにならない。この当時は、官僚との戦いでした。時には粘り強く説得し、時にはメディアに情報を発信し、世論に訴えかけました。運輸大臣を相手取り、訴訟を起こしたこともあります。相手が間違っていると思ったら、それが政府であっても戦う。それがヤマト運輸の姿勢です」(北村氏)
結局、ヤマト運輸の全国ネットワークが完成したのは、サービス開始から20年以上経った97年のことだった。