2人でコントをするために1人でも活動を続ける必要があった
初っ端からどスベりして、一層アクセルがかかる――。大抵の人であれば「これで終わり」となりそうな絶望的な始まりだが、ずっと「おもしろいこと」に飢えていた彼らにとっては、惰性をぶち壊す絶好のチャンスだったのかもしれない。
発破をかけることになった初舞台から数年後、20代半ばにして彼らはメディアの人気者となっていた。テレビ、ラジオ、SNSへ引っ切りなしに登場する日々。2018年には念願のキングオブコントへの初出場も果たす。
どんなに頑張っても努力が認められず、メディアにも出られないその他大勢からしたら、垂涎の的であったに違いない状況だが、人生は思い描いた台本通りになんて進まない。2020年、加賀さんが体調不良を理由に休養を発表する。
「寝られない日々が続いて、病院に行ったら『脳波が死んでるんで、休んだほうがいいですね』って診断を受けたんです。最初は休むつもりなんてなかったから、『ああやばい、やっちゃった』っていう感じでした。『目立っちゃったな』という感覚が強くて、本音を言えば戻ることを考えると恥ずかしかった」(加賀)
その頃、第七世代という言葉がブームとなり、若手芸人にとって群雄割拠の時代が訪れていた。そんな中でコンビとしての活動が立ち止まるのはどれほど怖いことか。当時の心境を聞けば、意外な答えが返ってきて驚く。
「僕は先を俯瞰できるタイプじゃないから、不安な気持ちはあまりなかったですね。自分も一緒に休むのは違うなと思ったし、絶対にコンビでコントをしなきゃ意味がないとも思わなかった。そんなことよりも、また2人でコントをやりたいなと考えていたから、それを繋ぐために1人で活動していました。自分がやれることを一生懸命やっていたら、どうにかなるだろうくらいの気持ち」(賀屋)
言葉のとおり1人で活動を続けた賀屋さんは、翌年のR-1グランプリに出場。加賀さんが作ったというネタで決勝に進出し、世間にかが屋の存在を忘れる時間など与えなかった。
「もちろん、2人じゃなきゃ駄目だなって感じることもありました。最初は『大変だよね』ってちやほやされて〝確変〟に入ってたけど、そのうち全然うまくいかなくなったんです。加賀に会うたび、『1人の仕事をどうしよう』っていう相談の比重がどんどん増えていきました」(賀屋)
「お見舞いに来てくれたんじゃないのって思ったけど、僕はとにかく励まして、励まして、励ましまくっていましたね。彼は全部うまくやりたいタイプだけど、うまくいかない様子をみんながおもしろがってくれているんだから、それでいいんだよって。
あの時、自分がメディアに出られなくて悔しいなんて気持ちは全くなくて、賀屋がかが屋として表に出続けてくれたことには本当にもう感謝しかなかったです」(加賀)
10年目のかが屋がNO.1を目指す理由
衝撃の出会い、初舞台でスベった苦い経験、上り調子の中でブレーキをかけなければならなかった瞬間。そんな10年を振り返りながら、彼らは未来をこんなふうに見据える。
「それこそ第七世代っていう言葉が出てきて、ライブのツアー動員数とか、盛り上がりとか、僕らは一度下駄を履かせてもらった時期がありました。見るだけでおもしろがってくれる人もいて、実力以上の評価ももらった。
そこから、キングオブコントで負けたり、僕が休養に入ったり、いろんな出来事があって、あらためて若手NO.1のコンビになりたいと思っています。だって、こんなことがあってもまだついて来てくれるファンの皆さんに、もっと喜んでもらいたいから。
キングオブコントで優勝とか、ABCお笑いグランプリで優勝とか、そういう恩返し的なNO.1を取りたいです。自分たちが優勝したいというよりも、それを応援してくれる人たちにNO.1の景色を見せてあげたいって気持ちがデカいですね」(加賀)
「僕も全く同じ気持ちですね。あとは、10年後も20年後もやっぱりテレビで活躍していたい。この先の目標は、冠番組を持つことかな」(賀屋)
取材の帰り道、周囲には泥まない自分にとっての〝普通〟を選択した〝賀谷くん〟の言葉を思い出す。
「30歳になっても芽が出なかったら、芸人は諦めるよ」
ピカピカのスーツを着て就職活動に勤しむ級友たちに囲まれた飲み会で、劇場終わりに普段着で駆けつけた彼はこんなことを言っていた。その場にいる誰もが「おいおい、諦めの悪いヤツだな!」というツッコミをお酒とともに飲み込んで、彼がテレビに映る日が来るなんて想像もしていなかったように思う。
それでも31歳になった〝賀谷くん〟は、今日もテレビの中にいる。こんな最高の伏線回収ってそうそうないんじゃないだろうか。
取材・文/井田愛莉寿(編集部) 撮影:洞澤佐智子