人の行動全体を観察し、文脈で捉え、潜在的ニーズを掘り起こす
もう少し、具体的な事例を挙げましょう。ある家電メーカーが、洗濯の場面を調査するとします。調査対象の家庭に、洗濯機に関する不満を尋ねると、洗い残しが気になるという話がありました。
こういうとき、多くの場合は、洗濯機ではなく洗剤の問題として話がスルーされたり、もっと洗浄力の強い洗濯機が必要という方向に、受け止められます。
しかし、私たちは、次のように考えます。洗濯は1日に何回、どういう風にしているのか? 調べてみると、その家庭では洗濯の回数を1日2回から1回に減らした結果、洗い残しが気になり始めたということが分かる。ではなぜ回数が変わったのか。もし仕事が忙しくなって回す時間が無くなったということであれば、より短時間で回せる洗濯機が喜ばれるかもしれないし、階下への騒音が気になったということであれば、より静かな洗濯機が必要なのかもしれない。さらに言えば、洗濯回数の変化に伴って強迫観念的に洗い残しがあるように感じてしまっているだけの可能性もあります。
そういった事情や潜在的なニーズは市場調査や消費者へのインタビューだけではなかなかわからないのです。
文化人類学は行動全体を観察し、文脈のなかで理解しようとするんです。例えば、行動観察からストーリーを発展させ、静かに回せる洗濯機を商品化すれば、こうした人たちの生活の質が上がるはず、と最初にはなかった視点で捉え直すことができます。つまり、洗濯機を考える際、洗濯だけでなく、その人の生活すべてを見たうえで、家電とどういう関係を取り結んでいるかを考えていくんです。
調査をしていると、「言っていること」と「やっていること」は違うことがあります。だからこそ何をしているのかを観察することに意味がある。次のような例もあります。
ある調査で、子どもには絶対に手作りの食事をさせると答えた健康意識の高い女性がいたとします。家にお邪魔してみると、とても片付いていて、モデルルームみたいなきれいな部屋で、確かに調査結果のとおりという第一印象としましょう。けれど、あるとき戸棚を開けてみたら、カップ麺が大量に収納されていた。彼女にとって、このカップ麺は何か。これを考えるんです。
これを、彼女の嘘として片づけるのは乱暴です。外ではステキな母親の振る舞いをしていて手作り料理をアピールしているけれど、実際には子どもにカップ麺を食べさせているとすれば、彼女にそうした嘘をつかせるような罪悪感やスティグマ(恥辱、負の烙印)の正体を考える必要がある。
あるいはカップ麺は自分専用で、夫へのストレスが噴き出そうなときのはけ口かもしれない。
それぞれの文脈で、カップ麺の意味合いが変わるので、たとえ調査内容間に齟齬があるからといって、一方が否定されるわけでもないんです。その人を注意深く観察したうえで、彼女にその発言や行動をさせている真意を弁証法的に探る。ここに文化人類学の面白みや深みがあるんですね。そうした潜在的なニーズが見えてくると、カップ麺のマーケティングや商品開発がガラリと変わる。こんな風にして、ビジネスを支援していきたいんです。
メーカーって、自社製品がどう使われているのかは意外と知らないんです。誰が、どういうニーズで、何と比較して買ったかは販売店で起こることだし、買ってからも、家のどこに置かれて、1日何回、家族の誰が使っているかって、知るのが困難です。なので、誰に向けて、どんなモノを作ればいいか、マーケティングはどうしたらいいかが難しい。
もちろんクライアントには、調査チームもあり、そうしたことを調査しています。しかし、私たちの人類学的調査はよくあるアンケートや、顧客インタビューとは全く違う結果がでることもあるので、また依頼したいということがほとんどです。
ただ、最近気づいたんですが、お付き合いしているところの大多数が業界最大手など感度の高い企業ばかりなんですね。話してみると、人類学についても元からある程度の理解をお持ちの方が多い。つまり、日本企業を広く見渡すと、文化人類学のビジネスでの活かし方はまだまだ浸透していない。
ここは課題だと認識しつつあります。