「フードバンクつばめに一番救われたのは、間違いなく俺なんすよ」
――フードバンクつばめが運営する「宮町食堂」の小川潤料理長は、カウンター越しにもつ煮込みを食べていた筆者に、そう語った。
宮町食堂とは、NPO法人「フードバンクつばめ」がこの11月1日にオープンさせた飲食店だ。つまみもあればお酒もある、いわば”地域の食堂”だが、他の店との明確な違いは「食堂の事業収益でもって子どもたちが無料でプロの料理人のご飯が食べられる」という点だ。
いわば「食べれば食べるほど、誰かを救うことのできる」、新しいカタチの共助の食堂なのだ(詳細は『前稿元官僚が挑戦する新潟県・燕市での新しい共助システム「宮町食堂」と「つばめベース」』を参照してほしい)。
話を潤さんに戻そう。潤さんは「宮町食堂」の料理長になる前、オーナーだったイタリアンの店を新型コロナによる経営悪化で畳んでいた。地元では大人気の名店だったが、新型コロナが猛威を振るう少し前に大型店舗に移転したり、公共施設の一角で指定管理としてカフェをオープンしたりしたことが潰れた主な要因だった。債務整理のための委任状をわが子同然の店「キッチンOGAWA」に貼ったのは、今からちょうど1年ほど前のことだ。
そんな潤さんが、なぜフードバンクつばめに救われたのか。そして、なぜ「宮町食堂」では「食べるほど誰かを救う仕組み」が可能なのか。
まず、「宮町食堂」開店までの経緯と料理長である潤さんの壮絶な人生を振り返る必要がある。
失われた“食堂”を復活させたいという理事長の思い
「宮町食堂」の名称は、燕市で過去最も栄えた商店街地区、宮町商店街が由来となっている。燕市は今日に至るまで長らく金属加工業の一大産地として名を馳せているが、このまちはそうした地場産業の担い手たちによって活気を保ってきた。
しかし、他の地方の御多分に漏れず、数十年くらい前から、“シャッター”が徐々に目立つようになった。
その後、現在の宮町商店街は奇跡ともいえる復活を遂げつつあるのだが(これについてはまた別稿にてご紹介したい)、飲食店事情はお世辞にも楽とは言えなかった。特に、地元民に愛され続けた食堂は相次いで店を閉め、お昼も夜もふらっと食べに行ける食堂は、ほとんど宮町近辺から姿を消してしまったのだ。
そんな状況の中、宮町商店街でフードバンクつばめの新拠点を構えることになった青柳修次理事長は、フードバンク事業の拠点ではありながらも、高齢化した地域住民の「孤独・孤立・孤食」も解消できる方策がないか模索していた。そして、その飲食事業で上がった収益を活用して子ども食堂が運営できないかと考えた。そこで出会ったのが、潤さんだった。
「宮町食堂」料理長の壮絶な人生
青柳理事長と潤さんが出会ったのは今年の5月。潤さんはすでにキッチンOGAWAを整理し、近所の居酒屋チェーンでアルバイトとして働いていたときだった。ひょんなことから酒の席で出会った二人は意気投合し、その数日後には、潤さんはフードバンクつばめのチームに加わることを決心した。筆者は当時のいきさつやそれまでの潤さんの生い立ちを伺うため、仕事終わりの潤さんを誘って飲み屋に繰り出した。
「母親は若いころに自分を産んでから、ずっとスナックをやってました。実の父親は会ったこともないどころか、顔も分からないんですよ」
潤さんはスナックで働いている母親とともに新潟市で生まれ育った。だが、実の父親に関しては会ったことも見たこともないという。家に残されていた生後間もない自分と両親の写真には、父親の顔がマジックペンで塗りつぶされていたからだ。
「小学生になった後もスナックで働く母の帰りは遅くて。当然朝ごはんもないし、家にカップラーメンしかないこともザラだったんですよ」
母がいない夜、寂しくて母の働くお店まで泣きながら通ったこともあった。しかし、そんな苦境のなかで、今後の人生を変える発見があった。
「チャルメラを朝ごはんに作ったら母親に喜ばれたんですよ。それがうれしくて。『料理が楽しい』って思えた最初のきっかけですね」
インスタントラーメンを作るというささいなことでも母を笑顔にできたことで、料理で人を喜ばせる楽しさを知った。
少年時代から「キッチンOGAWA」を閉めるまで、これまでの人生を飲みながら説明してくれる潤さん