バスキア作品のココがスゴイ!
バスキア作品の特徴として、グラフィティの手法が使われています。描かれている根底には「外vs内」「集団vs孤独」「富vs貧困」などの対比が挙げられることと、数字や単語や詩などが描かれ、1枚の画面のなかの情報量が圧倒的に多いのも特徴です。またペインティングと線画を融合させ、
抽象と具象の両方の性質を持ち、痛烈な社会風刺も効いている新しいアートを生み出したのです。そして、そのきっかけとなったのが幼き頃のバスキアが夢中になった「グレイの解剖学」でした。そこに描かれていたイメージ画とテキスト、シンボル、そういった影響を「チャールズ1世」「無題(頭蓋骨)」「黒人警察官のアイロニー」「ハリウッドのアフリカ人」など、バスキアの代表作品から感じることができます。
それはニューヨークで育ち、ストリートで感性を育んだバスキアならではのアートなのです。
ウォーホルとの仕事
バスキアは1983年からの数年間、ウォーホルといくつかのプロジェクトで一緒に作品を発表しています。そのなかで最も有名な作品が1985年に発表された「オリンピック・リング」です。ウォーホル作品の特徴である反復された五輪の輪の上にバスキアは五輪に反対するかのようなペインティングを施しており、ウォーホルとバスキアの両方の才能と哲学が融合した稀有な作品が誕生させています。
あまりにも短い生涯に幕を閉じる
バスキアの落書きは、その芸術性の高さによって多方面から評価を受け、瞬く間に高額取引の対象になっていきます。1985年には「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の表紙を飾るまでに上り詰め、バスキアのアート界での立ち位置は確固たるものになっていきました。そしてアートの世界で成功した、初めての黒人アーティストとも呼ばれるようになったのです。しかし、スターになることと比例して、バスキアはいつ人気がなくなるのか、いつシーンから忘れらてしまうのかという不安でいっぱいでした。そして次第にヘロインに溺れるようになり、生活も荒れていきます。唯一、ウォーホルだけを頼りにしていたバスキアでしたが、そのウォーホルも1987年に亡くなります。さらに孤独を深めたバスキアはまるでウォーホルの後を追うように1988年にあまりにも短い生涯に幕を閉じます。ヘロインの過剰摂取が原因でした。
おわりに
バスキア死後も作品の価値は上がり続け、2018年には123億円もの値段がついた作品があるほどです。また様々な企業、特にファッション業界ではバスキア作品とのコラボが続いているので、バスキアを知らなくても作品を見たことがあるという方も沢山いることでしょう。
もしもウォーホルがもう少し長生きしていたなら、もしもバスキアがヘロインに溺れずに生きていたなら、いったいどんな作品を残していたのかと思うと残念でなりません。
現在でもバスキアの評価の高まりによって、他のストリートシーンで活躍するアーティストの作品価値も上昇しています。今後もますます注目され続けていくのがバスキアというアーティストなのです。
今回の記事を読んで、少しでもバスキアに興味を持っていただけたら嬉しく思います。
以上、アイデアノミカタ「ジャン・ミシェル・バスキア」でした。
文/スズキリンタロウ