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ニューヨークのアートシーンを席巻したジャン・ミシェル・バスキアの功績と短すぎた生涯

2023.05.21

実家から独立してさまざまな交友関係を育む

1978年になると正式に家から独立します。父親はどういう心境であったのかは定かではありませんが、バスキアにしばらく暮らしていけるだけの金銭を渡しています。その後のバスキアの活動は日々勢いを増して加速していきます。そして、当時ソーホーのレストランでアルバイトをしていたところにウォーホルが現れ、バスキアはハガキを売ることに成功します。

1978年になるとバスキアは恋人とともにイーストビレッジにあるアパートに移り住みます。住所不定だったバスキアの最初の固定住所になったのがこの場所でした。この期間中、彼は映画関係者やミュージシャン、アーティスト仲間とともに新しいダウンタウンのトレンドスポットに顔を出すようになります。たとえばマッド・クラブ(Mudd Club)、クラブ57、CBGB、Hurrah’s、Tier3の常連となったのです。そこには、デビッド・バーン(トーキンヘッズ)、ブロンディ、マドンナ、ジョン・ルーリー、ディエゴ・コルテス、アン・マグナソンらと共に、バスキアはカルチャーシーンを作っていきました。当時のバスキアは、マッド・クラブのダンサーであり後に歌手としてスーパースターになるマドンナとも付き合っていたのです。マッドクラブには、ウォーホル、デビッド・ボウイなどのスーパーセレブも常連でした。

1979年になるとバスキアは司会者のグレン・オブライエンのTV番組「TV Party」に出演します。それが縁となって親交が深まり、番組に定期的に出演するようになるのです。そしてオブライエンからウォーホルを紹介されます。ウォーホルはかつてポストカードを買ったバスキアの正式な作品を見て瞬時にその才能を高く評価します。同年、バスキアは音楽活動も本格的にはじめ、ノイズロックバンドを結成しており、バスキアがよく遊んでいたナイトクラブでも定期的に演奏しています。またオブライエンが制作したインディペンデント映画「ダウンタウン81」にも出演します。

アーティストとしての地位を駆け上がる

1981年、バスキアはニューヨークのギャラリーで個展を開催します。これはギャラリストのアニーナ・イセイによる仕掛けによる反響も大きく、結果的に大成功を収め、一躍ニューヨーク・アートシーンの中心へと躍り出ます。そしてアート雑誌「Artforum」にも掲載され、その活躍がさらにグローバルなものへと飛躍していきます。また1983年になるとバスキアは交流のあったウォーホルの所有するビルへ引っ越し、それ以降はそこが生活の場であり、仕事の場となったのです。

楽曲も制作する

1983年にバスキアは、ヒップホップアーティストのラメルジーとK-Robに焦点を当てた12インチのシングルレコードを制作します。「ラメルジー VS K-Rob」というタイトルのレコードには、同じ曲の2つのバージョンが収録されています。このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーという1度きりのレーベルから限定500枚として発売され、現在は300枚程度しか見つかってないため、オークションに出てくれば$1500~2000の値が付けられています。カバーはバスキアが担当しており、現在もレコード・コレクターとアート・コレクターの両方で人気があります。

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