アイデアノミカタ「ジャン・ミシェル・バスキア」
現在、パリのルイ・ヴィトン財団美術館で「バスキアxウォーホル」の二人展が開催されており、あらためてバスキアに注目が集まっています。
バスキアは20世紀後半に活躍した最も重要なアーティストです。若くして才能を見出され、70年代後半から80年代にかけてニューヨークのアートシーンを席巻しました。
そこで今回は、バスキアの生涯について考察していきます。
また第1回アイデアノミカタ「アンディ・ウォーホル」と併せてご覧いただければと思います。
生い立ち
バスキアは1960年にニューヨークで生まれました。60年代のニューヨークは世界のアートシーンの中心であり、その時代環境に恵まれたこととバスキアの母親が芸術に理解があり、幼い頃から美術館を巡りアートに触れる機会が生活の中にありました。バスキア自身、頭脳も明晰であり卓越したデッサン力を生まれながらに持っており、母親はバスキアのためのアート教育に尽力します。そして8歳のころに早くも創作においての転機が訪れます。交通事故に遭い入院中に「グレイの解剖学」という本と出会い、それはバスキアの思想や芸術に決定的な影響を与えたのです。
グレイの解剖学・・・1858年にロンドンで出版された解剖学の医学書。著者はヘンリー・グレイというイギリスの外科医。
その後も順調に成長したバスキアは10代前半にして英語の他にスペイン語やフランス語も流暢に話し、また他言語の文学作品も熟読できるほどに成長していきます。けれど自我が芽生えるようになる多感な時期に、その日常に暗い影を落とす出来事がありました。バスキア13歳の頃、敬愛する母親が精神病院への入退院を繰り返すようになります。そしてバスキアは徐々に父親との関係も悪化していき、14歳の頃になるとバスキアは家出をします。15歳になるとニューヨークのトンプキンス・スクエアを仲間たちと溜り場にしていましたが、警察に捕まり強制的に父親の保護下へ置かれるようになるほどでした。しかし父親との関係はますます悪化していき、頻繁に家出を繰り返すようになります。まさにどん底の状況下に置かれたバスキアでしたが、アートの才能を活かして友人たちとTシャツやポストカードを制作して、ストリートで販売することで自立生活を送るようになるのです。
SAMO結成&解散
1976年、バスキアはストリートの友人であり仕事のパートナーとなる友人アル・ディアスとともに「SAMO」というグラフィティ・ユニットを結成します。SAMOではグラフィティ・アートを武器にマンハッタンの建物という建物に様々なグラフィティを残しています。その特徴的な作風は当時のシーンにおいて異端の存在であり、詩的で風刺の効いた言葉を作品にしています。
例えば
「SAMO©,,, AS AN ALTERNATIVE 2 ‘PLAYING ART’ WITH THE ‘RADICAL CHIC’ SECTION OF DADDY’$ FUNDS,,,’ SAMOは親のカネでお遊びしているやつにとって代わるものだ」
など資本主義や社会環境に疑問を投げかける言葉を多く残しているのです。
次第にSAMOの名前は世の中に知られていくようになりますが、シーンの表舞台に登場したいバスキアとアンダーグラウンドのままでいたいアルとの間には溝が広がっていきます。そして決定的な出来事となったのが、テレビ番組にSAMOとして1人登場したバスキアが相棒のアルに全く触れることなく番組が終了したことです。これが決定打となり、SAMOは解散することとなったのです。当時バスキアが残したグラフィティ「SAMO©️IS DEAD」が何よりもそのことを物語っています。