車いすバスケット女子日本代表チームの選手でキャプテンを務めた女性は引退後、パラアスリートをはじめ、身障者と寄り添う道を選んだ。彼女の半生、そしてその半生に基づいたセカンドキャリアへの思いを記した物語だ。
藤井郁美さん(40)、株式会社電通デジタルブランディング&コミュニケーション部広報PRグループ。藤井さんの入社は2018年、東京パラリンピック後の昨年、現役を引退し現在は主にこの会社に所属する彼女を含めた13名のパラアスリートの支援活動やパラスポーツ普及に向けた広報活動を担っている。
中途障がい者を余儀なくされた15歳のときのこと、パラアスリートしての生きざま、さらに35歳のときの突然発覚した病魔――。
「乗り越えたわけではありません。いろいろなものと共に、一緒に生きるしかなかった」
彼女は柔和な笑顔でこちらに向ける。
15才で右大腿骨と膝を人工関節へ
横浜市出身の藤井が兄の影響でバスケットボールをはじめたのは、小学2年生のとき。中学時代は部活でバスケを続け、バスケの選手として進学する高校も決まった。そんなある日、「練習中に右足に痛みを覚えました。捻挫か打撲かと思っていたんですが…」
県立がんセンターでの検査の結果、骨肉腫を告知される。
ピンとこなかった。病名を告げられても当初はその病気が、骨のがんであることも認識できなかった。「先生が人工関節を入れることで足は残せると。私も“お願いします”と納得して」右大腿骨、膝を人工関節に置き換えた。
入院は1年3カ月に及んだ。
“代われるものなら代わってあげたい…”親のそんな言葉が心に残っている。
バスケットボールが出来なくなったことが悲しかった。辛かった。
ケガならまだしも病気で…
立ち直るのに時間がかかった。1年遅れで決まっていた高校とは別の学校に進学。バスケ部のマネージャーとして、選手のアシストに携わる。
――車いすバスケットを知ったのは?
「バスケ部の顧問の先生に勧められました。先生は車いすバスケの審判員でもあって、“車いすバスケのチームがあるから”と」
――すぐに、車いすバスケにはまったのですか。
「それが全然で。練習に参加したんですが、私よりもはるかに年輩の人にまったくかなわない。シュートをしてもリングまで届かなかったし。私の周りに車いすを使う人はいませんでしたし、車いすの操作もしんどくて」
――それが人生をかけるように、車いすバスケにのめり込んでいく。
「先生が何度も声をかけてくれまして。練習場への送り迎えもしてくれました。先生は“日本代表チームのメンバーになれる素質を持っている、やってほしい”という思いが、あったようです。私もバスケの選手になりたかったし、健常者でプレーをしていたら、ナショナルチームのメンバーにはなれなかったと思いますね」
“静”と“動”、そして瞬発力が迫力満点
車いすバスケのルールを簡単に説明すると、通常のバスケとコートの広さもリングの高さも同じだ。車いすバスケでは出場選手5人の持ち点の合計が14点というルールがある。点数は1~4.5まで0.5きざみで障がいの重い人が1点、逆に藤井のように障がいの軽い人は4点。合計14点以内でチームを編成する。
コートで車いすが激突する迫力は印象的だが、故意に相手にぶつけるとファールになる。コート上で車いすのタイヤを握り、ミリ単位の細かい操作を駆使する。試合中、選手は車いすでの“静”と“動”が繰り返し、一瞬のスピード感は迫力がある。
藤井が本格的に車いすバスケをはじめたのは20歳のとき、車椅子バスケットの日本代表メンバーに選ばれたのは23歳だった。
「自分の競技力をもっと上げたい、世界に通用する選手になりたい」と、日本代表に選ばれて間がない2005年に、国内で一番強い男子チームのある宮城県に移住。武者修業のつもりで男子の練習に加わり技術を磨いた。
負けず嫌いは自他ともに認めところだ。
――これまで最も印象に残る思い出は?
という問いに、悔しかったことが口を突く。
「2012年のロンドンパラリンピックに出場するためのアジアオセアニア地区予選が、東日本大震災の2011年にありまして。これに勝たないと、ロンドンで開かれる本大会に出場できない。ところが、その大会で中国に敗れて7大会連続で出場していたパラリンピックへの出場権を逃してしまい、車いすバスケ女子日本代表チームの歴史を止めてしまいました。ナショナルチームにとって、パラリンピックの出場権を逃すことは大変重みのあることで。気持ちを切り替えて、次に向かうことがなかなかできませんでしたね」
波乱万丈は競技だけにとどまらない
2012年には男子車いすバスケット日本代表チームで、キャプテンを務めていた藤井新悟さんと結婚。2014年には長男が誕生した。プライベートの充実が競技へのモチベーションを高めていった。
「日本で一番大きい車いすバスケの大会は天皇杯ですが、2017年から男女混合リームの出場が可能になりまして。その年、メンバーに加わった宮城県のチームが天皇杯で優勝できて、私は女子としてはじめて、ベスト5の選手に選ばれた。天皇杯に出場できる女子選手は数少ない中で、結果を出せたことが同じ女子選手の刺激にもなったようで、“私たちも頑張ります”と、言ってもらえたことがうれしかったですね」
彼女の波乱万丈は競技だけにとどまらなかった。
今の会社に転職した2018年には、女子日本代表チームのキャプテンを担うのだが、その年、彼女は医師に乳がんを告知されている。35歳のときだった。
「もう勘弁してくれと…」
藤井郁美は穏やかな笑顔をこちらに向けた。
障がい者としての半生、競技で培ったマインドが“ダイバーシティー”や“共生”が注目される今日、どのように生かされようとしているのだろうか。明日公開の後編で詳しく語る。
藤井 郁美
1982年11月2日生まれ。15才の時に悪性骨肉腫を発症し、右大腿骨、膝を人工関節に置換。高校のバスケ部顧問に車いすバスケの存在を教えてもらい、20才から本格的に始めた。2018年以降、数々の大会で日本女子代表のキャプテンとしてチームをメダル獲得に導いた。東京2020パラリンピック競技大会にもダブルキャプテンのひとりとして出場。その後、2022年1月に現役引退。
取材・文/根岸康雄