コロナ禍を機に一気に加速した「DX」だが、その行きつく先にはどんな未来が待っているのか。昨年の都知事選にも立候補した小説家、沢しおんが2040年のTOKYOを舞台にIT技術の行く末と、テクノロジーによる社会・政治の変容を描く。
※本連載は雑誌「DIME」で掲載しているDX小説です。
【これまでのあらすじ】
二十年のうちにデジタル化が浸透した二〇四〇年の東京。一年後にその役目を終えることになった都庁の「デジタル推進課」に葦原アサヒが異動してくる。住民の失踪とともに個人情報データが消失するという事件が発生。近未来に似つかわしくない昭和建築の「分庁舎《はなれ》」で、デジタル化からこぼれ落ちたモノを巡って調査が始まった──。
二〇〇〇個問題と関ヶ原問題
葦原は、大黒課長の指示で情報公開課を訪れた。失踪者の親族が来庁するに際して公開課が対応することになったのは、個人情報保護に関する情報公開請求に至るのではないかと予想してのことだった。公開課は先日決裁書類の件で来た文書課と同じフロアにあった。
「もうわかってますよね、来てもらったところで、今の段階じゃどうにもできないってこと。何のために窓口に来てもらうんだか。わざわざ無駄足を踏ませるなんて、ボクは悲しい。デジタル推進課から、何かお土産持たせられないですか?」
葦原がフロアについた途端、情報公開課主任の淡路(あわじ)がまくし立てた。三十代後半にしては落ち着きのない彼の性格もあったが、事前打ち合わせには現状を把握する材料が足りず、嫌みの一つでも言わないとやっていられなかったのだ。
「デジタル推進課でも調査が始まったばかりですし、こちらからも話せることはないですね。憶測でものを言えないですから」
「温度低いなあ。冷たいって言われない?」
当然の回答をしたつもりだったが、淡路から冷たいと言われ、葦原はやりづらさを感じた。
「個人的には、すぐデータは復旧できるんじゃないかと思っています。前にも似たようなことがあったと聞いたので」
「じゃあそれ言おうよ。大阪で民間の情報漏洩事件があったろ。その影響で個人情報がどうなってるかって問い合わせ、最近多くてさ。それにワークフローAIを見たら、この件の優先順位ってボクのほかの業務に比べて下なんだよね。あんまり時間もかけたくないし、こじれないといいなあ」
二十年前まで、この国は個人情報取り扱いのルールが国や自治体で揃わず「二〇〇〇個問題」と呼ばれていた。そこへ二〇二〇年代前半に誕生したデジタル庁が抜本的改善に乗り出し、個人情報を道路や水道と同様のインフラととらえ、国民の情報を運用しやすいフォーマットにした。あわせて周辺の法制度も整備され、マイナンバーカードによる認証を組み合わせて、いつでも国民が自身の情報がどのように使われているかを照会できるようになった。
二〇四〇年が近づき、道州制が敷かれることを前提に関東の各都県は量子ネットワークで結ばれ、新世代ブロックチェーンをベースにしたデータの相互乗り入れを完了した。だが、関西や四国、九州などは旧来のLGWAN(総合行政ネットワーク)をベースとしたネットワークからの更新が追いつかず、直接の接続ができなかった。
このため、関東から住民が転出する場合は、機微情報一つ一つに対して転送してよいかどうかを住民個人が承認した上で、引っ越し先の地域で使用されているシステムに合わせてデータを作成しなければならないという「関ヶ原問題」を新たに生み出した。
「とにかく、今は個人情報保護で問題を大きくしたくないんだ。わかるよね。今度のことはいずれ国の個人情報保護委員会の耳にも入るだろうし。場合によっちゃ立ち入りもあるかもって、課長から言われててさ。僕も一緒に対応するけど、基本的にデジタルデータのことだから葦原さんに任せるからね」
淡路は言いたいだけ言い、葦原へ対応を押しつけた。申請手続きがほぼデジタル化され、直接住民とコミュニケーションするのが珍しい上に、相当にセンシティブな状況だ。葦原は背筋を伸ばすと、大きく深呼吸をした。
*
情報公開課の入り口にある応接用の机で葦原と淡路が待っていると、高校生くらいの若い女性がやってきた。世間では、四十年くらい前の「コギャル」に似た流行が巡ってきていて、彼女はその流行に乗った明るめの茶髪で快活そうに見えた。
「あのー、兄の件で、都庁の情報公開課ってとこに行けって区役所で言われて来たんだけど、ココ?」
女性は葦原と淡路を見比べるようにして、眉間に皺を浮かべて苦々しい表情をしていた淡路を避け、葦原のほうに話しかけた。
「はい。お手数ですが、まず本人確認をお願いいたします」
葦原が促すと、女性はバッグから端末を取り出してマイナンバーアプリを操作した。即座に机に据え付けてあるタッチパネルに、遣り取りが記録されることなどへの注意事項が表示される。
「これ、一階でもやったんだけど。同意を押せばいいの?」
「よくお読みの上、同意する場合にタッチしてください」
「同意しなかったら? ……って、何にもできなくなるよね、ハイ、押しました」
葦原の手元にあるディスプレイには『橘 樹花(たちばな じゅか)』と表示された。これが彼女の名前だ。
「それで、兄が急に居なくなって、それはもう警察にお願いしてあるんだけど、兄の個人情報が見られないとかで役所に行ってくれって言われて……」
「その区役所でも照会できなかったということで、承っております」
「話早い。それだったら、このカード、読める?」
橘はマイナンバーカードを取り出してトレイに載せた。
マイナンバーカードは誕生から四半世紀経っていたが、認証情報をスマートフォンやパーソナルアシスタント(PA)端末への内蔵が可能になったのはこの十年くらいの話だ。
オンライン化が進行した反面、頑なにプラスチックのマイナンバーカードを更新して使う人もおり、そのために役所ではいまだにカードリーダーを設置している。
「ご兄妹とはいえ、ご自身ではないカードを読み取ることはできないんです」
「え、でも区役所でも警察でも速攻でカード読み取ってくれたんだけど?」
「個人情報も開示手順も何も気にしないでカード読むって、雑な仕事をしてるとこもあるもんだな」と淡路が小声で言った。
「とにかく読んでみてよ。エラーが出て見れないんだって。その原因つきとめてくれんのがココってことでしょ?」
「形式的ですみません。お兄様から預かった委任状などは、ないですよね」
「失踪してんだからあるわけないっしょ」
橘の勢いに、葦原は「失礼いたしました」と首をすくめた。
「そしたらさ、私が自分のと間違えてこのカードを挿したことにすれば?」
「橘様のマイナンバーカードはすでに端末のほうに内蔵されているようですし、それはさすがに無理が……」
葦原が最後まで言い終わらないうちに、淡路が横からカードリーダーをスッと差し出してきた。
「話、わかってんじゃん」
橘が「あ、間違えちゃった!」と言いながらカードを挿すと、確かにデータが表示されない。カードが曲がっている時などに発生する読み取りエラーではなく、全ての欄が空白に置き換えられていた。
「これって、兄が消えたからこうなってるの? それとも死んでるってこと?」
あっけらかんと「死んでる」と口にする橘に驚かされる。
「個人情報基幹システムに登録されているデータは、私たち職員であっても操作をして消すことはできません。もし亡くなるなどした場合でも、消すわけではなくて、亡くなったということを記録するんです。だから消えたというよりは見つからない状態、ということしか今は言えません」
葦原は大黒や他の職員が言っていたことを受け売りするくらいしかできなかった。
ハッキリした回答が得られず橘は不満そうだったが、この後で警察にも行くのだと言って帰っていった。淡路は情報開示請求にならなくてよかったと、さっさと自席へ戻ってしまった。
*
葦原がエレベーターホールへ向かっていると、「葦原さん」と後ろから呼び止められた。振り返ると書類ケースを抱えた文書課の櫛田が微笑んでいた。
(続く)
※この物語およびこの解説はフィクションです。
〈設定解説〉
二〇〇〇個問題:2021年5月現在、国の「個人情報保護に関する法律」だけでなく、都道府県、市区町村といった1700以上の地方自治体における条例、そのほか政府機関、独立行政法人、広域連合において用いられる規定など、個人情報保護に関するルールがバラバラに定められており、その数の多さから2000個問題と呼ばれている。個人情報の取り扱いには厳格さが必要な反面、災害時等の場面で官民連携の障壁となっており、解決が急務とされている。
ワークフローAI:2040年にも存在する「誰にお伺いを立てるとスムーズか」「どの部署と連携すれば片づくか」「話を通す順番を間違えると疎まれてしまう」等の可視化されづらいノウハウをDXするにあたって誕生した。的確なワークフローの設定や優先順位づけをAIが行ない現場業務がスムーズに……なっていなさそうなのは、人間社会の複雑さ故か。
沢しおん(Sion Sawa)
本名:澤 紫臣 作家、IT関連企業役員。現在は自治体でDX戦略の顧問も務めている。2020年東京都知事選にて9位(2万738票)で落選。
※本記事は、雑誌「DIME」で連載中の小説「TOKYO 2040」を転載したものです。