コロナ禍を機に一気に加速する「DX」だが、行きつく先にはどんな未来が待っているのか。昨年の東京都知事選にも立候補した小説家・沢しおんが2040年のTOKYOを舞台にIT技術の行く末と、テクノロジーによる社会・政治の変容を描く。
※本連載は雑誌「DIME」で掲載しているDX小説です。
ザ・デイ・オブ・ザ・テレワーク
【これまでのあらすじ】
二〇四〇年の東京。デジタル化が浸透し、一年後にその役目を終えることになった都庁の「デジタル推進課」に葦原アサヒが異動してくる。デジタル時代に似つかわしくない昭和の時代に建てられた「分庁舎《はなれ》」は部屋を「ご神木」に貫かれており、葦原は目を疑う。初日の仕事はデジタル推進課に似つかわしくない「紙の書類」へ決裁印を集めること。訝しがる葦原がその日の最後に文書課を訪れると、櫛田が明るく出迎えた──。
「紙の書類。久しぶりだな、こういうの」
櫛田は葦原が渡した書類を見て、笑みを浮かべる。
記載事項をチェックしながら櫛田は「あれっ」と小さく声を上げた。
「何か間違いでも……?」
「ううん、大丈夫。昔の人は定規をあてて、1行ごとに見ていったらしいけど」
「はあ……」
駄目なら駄目で早く言ってほしい。葦原の怪訝な表情を余所(よそ)に、櫛田は嬉しそうに紙面を指でたどっていく。
「これね、偉い人のハンコが少しでも左上になるように並んでるでしょ? 古い風習もちゃんと守られてる」
「気づきませんでした。とりあえず不備がないのなら、もう戻っていいですよね」
「うーん。見たところ問題なさそうなんだけど、何か変」
「変? 書類、どこか間違ってましたか」
紙を常用していた時代の手戻りにまつわる不便さまでは想像がつかなかったが、肝心の書類に間違いがあったというのでは今日の苦労が水の泡になってしまう。
電子決裁なら文面への指摘や修正履歴は全て可視化されるので、何が問題でどういう意図で変更したかがわかりやすい。適切にバージョン管理もされ、オンライン上で常に最新の状況が把握できる。だが、紙の「最終版」を持たされただけの葦原には、何がどう間違っているのかまではわからない。
「ううん。記載漏れみたいなのはないけど、前もこういうこと、あったような……」
手を頰に当てて考え始めた櫛田を見て、葦原はこんなわかりやすい考え事のポーズをする人がいるものだ、と思った。
しばらく見つめていると、櫛田は「調べたほうが早いか」とつぶやいて上着外側のポケットからPA端末を取り出し、検索し始めた。
「やっぱり。私がここに来て最初の頃だ、懐かしいな。うん、今は受け取れない」
自問自答で解決までしてしまったかのように、櫛田は書類を葦原に戻した。
「やり直しってことですか」
「そうじゃなくて、過去に似たようなことがあって、これは今受け取っちゃいけないの。一度、所属に持って帰って」
「そうなんですか。秘書官にここに寄るように言われたのは何だったんだ」
「秘書官って、二人いるうちのどっちだった? 鷹見さんでしょ」
ハンコを見れば名前がわかるのに、不思議な質問をしてくるものだと葦原は思った。よく考えると秘書官の押した判は知事の決裁印だったので、名前がわからない。使い慣れた電子決裁と違って、ハンコは代理で押してしまえることに改めて気づく。
葦原は〝スタンプラリー〟に夢中で相手の名前を都度確認していなかったことが恥ずかしくなり、慌てて自身のPA端末を手にして今日の履歴を確認した。
「鷹見秘書官です、おっしゃる通り」
勤務中の庁内での行動は、誰と接触したか、どの部屋に入ったか、自動的に記録される。
「鷹見さん、文書課がすんなり受け取ると思ったのかな。私の目もそんなに節穴じゃないんだけどな」
「どういうことですか」
「その書類。ちらっと見たところ、結構大変なことが書いてあるみたいだから。頑張って」
「ええ、まあ。ありがとうございます」
手を振って送り出す櫛田に、葦原は腑に落ちない気分のまま、本庁舎を出た。
見上げると、雨はとうに止んでいた。
「戻りました」
「コンプリートしたか。今日中にできて良かった」
デジタル推進課に戻ってきた葦原を、大黒はにこやかに迎えた。
「でも書類、文書課で受け取ってもらえなかったんです」
「文書課? 行き先の中には入れてなかったろ」
「最後に知事の決裁印を押してくれた秘書官の鷹見さんが、最後は文書課だと」
「あの人も相変わらずだな。そりゃ秘書官から行けと言われたら行く」
「その鷹見秘書官からは『ご武運を』って言われました」
「わかってて言ったんだろうな、なかなかの食わせ者だよ。デジタルで保存されたら他のやつから参照される。当たり前のことだ」
「今は見られたくない、ということですか」
「これだけの決裁をとったんだ、いずれ議会や組合にも情報は漏れる。時間の問題だな」
葦原は、電子決裁ではなく紙だった理由が少しわかってきた。大黒は、調査結果が出るか、あるいは何かのタイミングまで、紙のまま手元に留めておきたかったのだ。
「自分、秘書官に試されたってことですかね」
「さあな。明日はミーティングから始める。午前中は家から?」
「はい、そうします」
「他のメンバー全員そうだから、出勤してきてもな。そうしてもらえると。今日はゆっくり休んで。じゃ」
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
*
未来を予期して準備しておくというのは堅い組織にとっては難しいことで、「急務」と呼ばなければならないほど問題解決に迫られるか、外圧があってやっと重い腰が上がる。
在宅勤務やテレワークは、「働き方改革」が提唱された二〇一〇年代後半では民間企業でさえまだ白い目で見られ、その後COVID-19をきっかけに緊急時の手段として広まった。
テレワークの有用性が説かれていても、〝仕事のスタイルを変えられない上司たち〟からは「サボりが発生したり、進捗確認や相談に支障をきたす。俺達は現場の空気を読んで采配するのが仕事だからテレワークなんかとんでもない」と非合理な反発をされ、組合からは「どこでも業務ができるようになると職員に恒常的な負荷をかけかねない」と懸念を示され、両面から壁が立ちはだかり遅々として進まなかった。
ところが、二〇二〇年代後半になって社会が避けられない現実に直面した。いわゆる『老老介護』が誰にとっても他人事ではなくなり、少子高齢化を象徴する悲惨な事件が頻繁に報道された。
子育てや出産への支援は充実しつつあったが、経済状況の回復を体感できない貧困のさなか、「育児・労働・介護」の全てを一手に若者世代が担うのは難しかった。
そういった背景があり、テレワークが進まなかった部局や、頑なに首を縦に振らなかった現場主義の世代も、若い職員が休業や退職をしてしまうよりはと、DXの浸透とともにテレワークを受け容れていった。
翌朝、葦原は身支度をして自室の机に着席し、パソコンに接続されたホルダーにPA端末をセットした。PAはテレワークをするのに重要なセキュリティキーを兼ねていて、これが接続されている間にパソコンから行なわれる7G通信はプライベートネットワークとして機能し、作成したファイルも全て暗号化され、ファイル単独では部外者は読み取れないようになる。
電子会議のスタイルも多様化し、バーチャル空間にアバターで現われる者もいれば、葦原のように古式ゆかしい「ビデオチャット」で顔だけを映す者もいた。それをシームレスに統合したのが新世代の電子会議システムだ。
「葦原アサヒです。よろしくお願いします」
「お、新人! よろしくな!」
同じ課のメンバーが口々に応える中、静かに指摘する声があった。
「データが一人分まるっと消えたのって、二年くらい前にもありましたよね」
「あの時はデータだけだったが、今回は本人も消えている」
「それって警察の仕事じゃないんですか」
「人捜しはな。だがデータの消え方は二年前に酷似している。この通り、調査に必要な稟議は全部済ませた。調査は難航すると思うが、粛々とあたりたい」
葦原の最初の仕事――ハンコの並んだ書類――を、大黒は皆に見えるようにバーチャル空間でかざした。
(続く)
※この物語およびこの解説はフィクションです。
〈設定解説〉
●PA端末:極度にパーソナライズされたAI端末。かつては服務規程で名前と所属の書かれた職員カードの着用が義務付けられていたが、それがデジタル化で廃止、その代わりにPA端末が配布され、携行が義務付けられている。使い込めば使い込むほど使用者本人と同様の振る舞いをネットワーク上で行なうことができ、当然、メッセージの返信代行などはたやすくやってしまう。誰と接触したか、どの会議室に入ったかなども自動的に記録され、他端末と近距離通信をしながら勤務中のログを取り続けている。
●新世代の電子会議システム:物語中にあるように、自身の映像とVRアバターが混在できるだけでなく、AIを「デジタルクローン」として出席代行させることができる。カメラで撮影された人物とデジタルクローンの映像は区別がつかなくなっているが、音声による受け答えも当人そのものであり、何ら問題はない。
沢しおん(Sion Sawa)
本名:澤 紫臣 作家、IT関連企業役員。現在は自治体でDX戦略の顧問も務めている。2020年東京都知事選にて9位(2万738票)で落選。
※本記事は、雑誌「DIME」で連載中の小説「TOKYO 2040」を転載したものです。