コロナ禍を機に一気に加速する「DX」だが、行きつく先にはどんな未来が待っているのか。昨年の東京都知事選にも立候補した小説家・沢しおんが2040年のTOKYOを舞台にIT技術の行く末と、テクノロジーによる社会・政治の変容を描く。※本連載は雑誌「DIME」で掲載しているDX小説です。
デジタル推進課?衰退課?
二〇四〇年の東京。二十年のうちにデジタル化が浸透し、一年後にその役目を終えることになった都庁の「デジタル推進課」に葦原アサヒが異動してくる。デジタル時代に似つかわしくない昭和の時代に建てられた「分庁舎《はなれ》」は部屋を「ご神木」に貫かれており、葦原は目を疑う。初日の仕事として「紙の決裁書類」を託され、狐につままれた気持ちになる葦原に、課長の大黒は課の仕事を「デジタル化でこぼれ落ちたモノを拾う残務整理」だと言うのだった──。
書類を持って決裁の判を得るという〝前時代的〟なミッションを前に、葦原は大黒に尋ねた。
「紙を持って回ったところで、皆さんいらっしゃるんですか?」
庁舎が被災した際でもできる限り業務が滞らないよう、BCP(事業継続計画)の観点でローテーションでのテレワークが恒常になっているため、それを気にしてのことだった。
「年度の初めだ。そこにハンコをつける役職なら上から下まで登庁してる。書面の起案回付なんか今じゃ滅多にない。珍しがって喜んで押してくれるさ」
「この起案書面、至急で時限秘になってます。これ秘密扱いの文書になりますよね。行った先で何か質問されても、自分だと説明が全然できないと思います」
文書規定管理規則上の懸念を葦原が口にすると、大黒はわかっているとばかりに目を細めた。大きめのマスクでわからなかったが「細かい奴だな」と呆れられている気もした。
「全部済んでる。協議も知事へのレクも。何も訊かれないよ」
「……なら安心、ですかね。表紙の固いファイルか何かがあれば挟みたいんですが」
大黒は引き出しからクリップボードを取り出して「これ」と言って渡した。縁が所々剥げていて、それなりに使い込まれていた。
「そこまで根回しが済んでてどうして紙なのか、とでも言いたそうだが。さっき言ったとおり事情ってやつだ」
葦原はそう言われて「誰が責任をとるのか暈してわからなくする仕組み」という言葉を思い返した。電子起案だと、誰が何を管掌していてその業務のどんな観点で意見したかまで記録される。決裁の妥当性を確保し、余計な横槍が入らないその仕組みを当然としてきた葦原には、何か問題のあることに手を染めているような感覚さえ起こった。
「慣れないと思うが。行き先は今、そっちのPAに全部入れておいた」
葦原はポケットから小型端末を取り出した。これから訪れる部署の一覧と、庁舎内を最短で回れるルートが表示されている。
端末はパーソナルアシスタントを略して「PA」と呼ばれている。表面全体に情報が表示される薄い板状で、曲げや折れにも強い。これにクラシックなスマートフォンを模したカバーをつけたり、紙の手帳と一体化するケースをつけたりして使うのが今時のビジネスユーザーに人気だったが、葦原は何もつけずにプレーンな状態で持ち歩いていた。
「これって分庁舎《はなれ》は何故か出ないですよね」
「だから〝はなれ〟って呼ばれてんだよ。早く行かないと回りきれないぞ」
「回りきれなかったら戻ってくればいいってさっき」
「明日からはまたローテーションでテレワークになるぞ」
そうだった、と葦原は書面を挟んだクリップボードをカバンに入れ、傘立てから自分の傘を抜き取った。
「マスク、していけ。俺くらいの年齢だとクシャミひとつにも嫌悪がある」
そう言うと大黒は薄い樹脂のエンベロープに入った携帯用マスクを葦原に手渡した。
「結構な予防接種を小さい頃から受けさせられてきてるんですけれど、ぼくの世代は」
二〇二〇年に猛威を振るったCOVID-19は、数年にわたって人類を脅かし、その後も禍根を遺した。COVID-19がまだ「新型」と呼ばれて流行していた頃、葦原はまだ物心ついていない歳だったが、「新型」という言葉が遠くなった頃に日本を蝕んでいたのはウイルスそのものではなく、行動変容できた人とできなかった人との間に生まれた格差や差別の心だった。ウイルス禍において、医療を中心とした感染症そのものへの対策だけでなく、政策として行なわれた経済行動の抑制や、感染者の隔離、それらに伴う支援などは臨機応変ではあったが、粗のある制度設計で救いの手から漏れた人も多く、当時の国民は不公平感や不満を募らせたという。
だが、デジタル化の推進が功を奏し、メジャーなメッセージアプリが拡張される形で、人々のスマートフォンは国民生活を支える身近な端末となった。
支援を必要としている人が可視化され充分なケアが行なわれたが、ワクチン接種等の保険情報を始めとした個人情報とマイナンバー制度の融合には、さらに数年を要した。
早期に封じ込めに成功した他の国や地域と比べてしまえば、よい戦果とは言えない日本のCOVID-19対策だったが、デジタル化による「敗戦処理」でかろうじて面目を保てたというのが二〇三〇年ごろまでに国内で起こった出来事だ。
葦原は分庁舎《はなれ》を出て傘を開いた。ぼたぼたと大粒の雨の当たる音はしばらく止みそうにない。
本庁舎に入ると、さっきデジタルサイネージでも見た「誕生 シン・東京都」のタイポグラフィを今度は電子掲示板で目にする。二〇二〇年代の都政のキャッチコピーやヒットした映画のタイトルをオマージュしているのだという。流行歌やファッションも何十年かのうちに似たものが巡ってくる。子供の頃見聞きしたもの、青春時代とともにあったもの、それが年を経て偉くなり決定権をもった「往時の若者」が採用する。
エレベーター前に据えられたポール状のゲートが「ピッ」と小さな音を立てる。小型の生体スキャナーは出入り口やエレベーターホールだけでなく各部屋にも据え付けられていて、勤務中の職員がどこにいるかのログが細かく取得されていた。過去には出退勤や在席の状況をグループウェアの画面上で確認していたというが、今は何をする必要もない。勤務時間帯、庁内の位置情報、各所の生体スキャナー等、複数の要素が揃うことで本人性が確認される。
もし細かい修正が必要な時は所持しているPAですればよい。
PAの示すとおりの順路で、葦原は次々と判を受けていった。仕事で判が並んでいくというのは初めての体験で、子供の頃にやった「スタンプラリー」そのものに思えた。それに、判を押す部長や局長クラスの人々も「久しぶりだ」とか「これじゃデジタル推進課じゃなくて衰退課だな」などと言って心なしか楽しそうに見えた。
「次は総務部の文書課か。最後までよろしく頼むよ」
政策局で待っていた知事の秘書官は、押印した書面を葦原に戻しながら言った。
「そうなんですか。全部埋まったら、分庁舎《はなれ》に持って帰るつもりだったんですが」
「やり方、伝わってないのか。大黒さんらしいな。若手を千尋の谷に突き落としているわけか」
「どういうことですか」
「細かいことに躓いていたら、這い上がれないからな。住民の情報がロストしたとわかったら、市町村と国との間に挟まれる」
「データ調査の結果によっては、そんなことになると?」
「なるだろうね。この15年くらいで個人情報データベースは国が押さえ、利用するのは主に市町村か住民個人。間に挟まれた都道府県がネットワークインフラを管理……いずれ州になって広くなったら面倒ごとはもっと増える」
「残務整理って大黒課長は言ってました」
「全部デジタル推進課が活躍していた頃の遺産《レガシー》だよ。このハンコもらってくる間に〝衰退課〟なんて冗談、言われなかった?」
「言われました」
「ご武運を」
秘書官はそれだけ言うと知事室へ去って行った。葦原は入力されていなかった文書課の場所をPAに問いかけるのももどかしく、壁に貼られた案内板で探した。
「デジタル推進課の葦原です。起案文書の件、分かる人いらっしゃいますか」
文書課のドアを開けたあと、何と言えばよいかわからなかったのでとりあえずそう言うと、奥のデスクで作業をしていた女性が立ち上がって葦原のほうへやってきた。
「デジタル推進課の人が来るって聞いてたけど、大黒課長じゃないんだね」
「ええ、まあ。初仕事で庁内を回ってます」
葦原は近づいてきた彼女の目力に吸い込まれそうになりながら、ふわっと答えた。
「櫛田です。デジタル課さんの件はだいたい私が担当になるかな」
肩くらいまでの黒髪にキリッとした眉で、彼女は「初めまして」とはにかんでみせた。
(続く)
※この物語およびこの解説はフィクションです。
〈設定解説〉
●「誕生 シン・東京都」:この小説世界で近いうちに道州制を迎え、州都となる東京の再始動を謳うキャッチコピー。2040年には、映画『シン・ゴジラ』などに影響を受けた世代がキャッチコピーの決定権を握る職位についているという想定で原稿は書かれたが、偶然にも入稿後に現実の都政が「シン・トセイ」戦略を策定してしまったため、今回フォローの一文が挿入された。
●全庁テレワーク:「働き方改革」で少しずつ浸透し、2020年のコロナ禍で定着したテレワークだが、市区町村といった基礎自治体では住民との接点となる窓口業務も多いため完全導入までの期間がかかり、都道府県庁が率先して実施したことで、最終的に小説内の状態になったという設定である。
●地方自治法と2000個問題:今後20年のうちに新しいデジタル時代に合わせて法改正が一層進むと考えられる。また、個人情報保護について、「2000個問題」と呼ばれる規定の乱立がデータの利活用を阻んでいる。この世界での個人情報は、本人による一定の承諾ルールのもと、柔軟かつセキュアに運用されているものとしている。
沢しおん(Sion Sawa)
本名:澤 紫臣 作家、IT関連企業役員。現在は自治体でDX戦略の顧問も務めている。2020年東京都知事選にて9位(2万738票)で落選。
※本記事は、雑誌「DIME」で連載中の小説「TOKYO 2040」を転載したものです。