バブル時代のお話である。バブルとは1986年12月から1991年上半期までに起こった資産価格の上昇と好景気、それに伴う社会現象のことで、今も語り草になっているのは承知の通り。そのど真ん中で学生時代や新社会人を経験した若者たちは現在、50代前半である。スマホが存在しなかったバブル時代に、若者たちはどんな経験をしたのか。
これはバブル時代に大儲けをした、いわゆるバブル紳士のお話ではない。市井の若者がバブル時代に得たものは何か。人と人とのソーシャルディスタンスが、クローズアップされるポストコロナの今、バブル時代の若者が肌身で感じたことは、新常識に一石を投じているのだ。
入学式当日、校門に並ぶインカレの面々
高山陽子さん(仮名・49)とは、中央線三鷹駅に近い、ブレンドコーヒーが250円の喫茶店で話を聞いた。新型コロナの非常事態宣言前の3月上旬の昼前だった。ベージュのコートにジーンズ、赤いスニーカー、小脇のルイ・ヴィトンのバッグは若い頃の面影か。
陽子さんは北陸のT市出身。父親は地方銀行の行員。地元の女子高を卒業して、
「東京に憧れていましたから」武蔵野市内の女子短大に進学。1989年4月のことだ。
「入学式の当日、他の大学のサークルの勧誘の学生が、ズラッと校門に並んでるのに驚きました」他大学の学生と交流できる、当時流行りのインターカレッジサークル(インカレ)の面々だ。女友だちの多くがそうだったように、彼女も複数のインカレのテニスサークルに入部する。男友だちは困らなかった。
「当時、男子学生はほとんど車を持っていました。女子大の近くの駅に集合して何台かに分乗して、みんなで河口湖にドライブに行くとか。デートの時は車で大学の前に迎えに来てもらうのが流行りでした」
当時の男性は学生でも、車の所有が一つのステータス。アルバイト代を月賦につぎ込んで車を購入した。日産・シルビア、ホンダ・プレリュード等が“デートカー”と呼ばれた。
居酒屋、ファミレス、どこもいっぱい
「旅行にも行きました。一つのサークルの合宿は年2回ですが、3つ掛け持っていましたから、合宿だけでも年6回ぐらい行った。スキーもグループで行きましたね」
映画「私をスキーに連れてって」のヒットは1987年、バブル期はスキー場の開発も相次いだ。中でも苗場プリンスホテルが人気で、数時間のリフト待ちも友だちと一緒で楽しかったと彼女は当時を振り返る。
「居酒屋にもよく行きました。白木屋、村さ来、すずめのおやど等々。サークルごとのグループが各テーブルを占領していて、店内は学生でいっぱいだった。居酒屋でサワーを飲んで、必ずカラオケに行って。私が得意だったのはアン・ルイスの“六本木心中”」
スマホがない時代である。友だちとは会って話をする。だから、居酒屋もカラオケもファミレスも若い人でいっぱいだった。待ち合わせに遅れると駅の伝言板に書かれた伝言を見て、仲間のいる居酒屋に駆けつけた。
「最初は短大の寮生活でしたが、寮にある電話は2台、毎晩長蛇の順番待ちで長電話はご法度。門限が夜9時と決まっていて」
短大1年の10月にはそんな堅苦しい寮を出て、近くの家賃8万円のワンルームに引っ越した。学費と別に月の仕送りは20万円以上あった。
バブル当時は、土地神話に支えられて地価は高騰し数字の上、東京23区の地価でアメリカ全土を購入できるといわれたほどだ。銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大。1985年3月末から1993年3月末にかけて、全国銀行の貸出は、251兆円から482兆円へと倍近く増加している。
陽子さんの銀行員の父親はバブル景気で残業が増え、実入りがよかったのだ。だが、20万円ほどの仕送りでは、とても足りなかった。
ジュリアナ東京のお立ち台とジュリ扇
「当時はユニクロのような安い洋服屋さんがなかったから、カジュアル系の服はシップスやユナイテッドアローズで買いました。カットソーもブラウスも1枚1万円ぐらいした」
短大に近いステーキハウスで週3回、3時間のアルバイト。時給は900円だった。当時はファミレスでもマクドナルドでも、今のように主婦のパートはほとんどいない。店員はほぼ若い人たちで、アルバイト仲間も遊び友だちだ。居酒屋での飲み会にカラオケ、ドライブ、スキー等の旅行、そして当時欠かせないのがディスコ通いだ。
「短大1年の頃、よく通ったのは芝浦のGOLD、ハウス系のディスコで倉庫を改造した店内は打ちっぱなしのコンクリート。薄暗くてミラーボールが回っている。GOLDのクリスマスパーティーに参加しました。ビンゴの商品は覚えてないけど、どれもキラキラ輝いていた。六本木のマハラジャは、VIPルームがあって高級感がありました。JR田町駅の近くにジュリアナ東京がオープンしたのは91年で、広いディスコでした」
ジュリアナ東京ではユニホームのようなだった1着4〜5万円するボディコンのワンピースは、10着ほど持っていた。ジュリアナ東京といえば、ダンスホールの両脇に設置された1mほどの高さの「お立ち台」だ。
「お立ち台は先に上がったもの勝ちでしたから、仲間5〜6人で一緒に上がりました。お立ち台の上は人でいっぱいで、みんなノリノリで踊りながら押してくるから、私も押し返し、ステージから落ちないようにして。ジュリ扇っていって、赤、黄、ピンクとか、派手な羽付き扇子を手に持って、踊りながら振り回す。
一度、知り合った人にVIPルームに招待されたのですが、ホールと違って静かで、お金を持っていそうな人たちがたくさんいました」
地上げ屋のボロい商売
ジュリアナ東京のオープン時は、バブルも終焉を迎えようとしていたが、当時ディスコのVIPルームは、地上げ屋の“商談”の場だった。多くは暴力団を背景にした業者だ。
「あんた、あの六本木の土地、地上げできたそうやないか」
「ああ、住民は追い出した。8坪ほどで1億円以上かかったわ」
「ほな、その土地を2億で譲ってくれや。上物はこっちで処分する」
別の地上げ屋が話に加わって、「ええ話やないか、オレに3億で譲ってくれんか」「よし、明日書類を揃えてオレの事務所に集合や」
建設業、不動産業、ノンバンクはバブルを代表する業種だ。それらの利権に巣食う地上げ屋の土地転がしは、短時間で数億円の金が動いていた。
スマホはない、インターネットもない。その中での空前絶後の好景気。振り返るとバブル期は、今の社会が進もうする方向とは真逆の超三密だった。人が集まる、ギャザリングと、それによって作られる仲間を謳歌した時代であった。
バブル期は就活も、空前の売り手市場だった。そんな時代の波に乗った高山陽子さんだが、何を経験しどう身を処したのか。後編で詳しく。
取材・文/根岸康雄