本当のウィンウィン
「ウィンウィン(win-win)」という言葉は世界的に使われているが、その意味を理解している人は非常に少ないと、ナシャー教授は指摘する。ほとんどの人は、これを「妥協する」ことと履き違えているのだという。しかし妥協は、双方が不満を感じる「ルーズルーズ(lose-lose)」しか生み出さないとも。そして、「世の中のほとんどの交渉は、はじめからお粗末な妥協案にしかたどり着けないような手順で進められている」点にも言及されている。
ウィンウィンを妥協だと思っているかぎり、双方の不満は避けられない
では、どうすればよいのだろうか。ナシャー教授は、基本原則として、相手の要求がどんな関心事にもとづいたものかを把握することが重要だとしている。例えば、今度の長期休暇で、夫婦がインドに行くか、ドバイに行くかで揉めたとする。インドに行きたい妻は、旅行を通じて異文化を体験したいというのが関心事で、ドバイに行きたい夫は中東のビーチ天国でのんびり過ごすのが関心事だということを突き止められれば、オマーンのような、両者の関心事を満たせる行先にするという、ウィンウィンの結果へたどり着ける。
だから、いかに相手の関心事を把握するかが大切になる。相手が上司だと、難しく思えることもあるかもしれないが、「役職や勢いに畏縮せずに、それが何を重視しての発言なのか、その根底にある相手の関心事を突き止めるようにしよう」と、ナシャー教授は述べる。
そのための方法の1つが、「あなたの関心事を少しずつ明かして、相手の出方をうかがおう」だ。そうすれば、相手も自分の目的を果たせるよう、協力的な姿勢を見せてくる。そこで、おもむろに、相手に何を求め、なぜそれを求めているのかを尋ねる。優秀なセールスパーソンが、営業トークでたたみかけるのではなく、相手の要求に耳を傾けることに時間をより多く割くのと一緒だ。
アンカリングで印象を操作する
売買の交渉時において、最初に提示された金額は「アンカー」(錨の意味)と呼ばれ、アンカーとなった金額は、心理的に後々まで引きずる。これを、交渉心理学でアンカリングという。
例を挙げると、購入したいと思っている車に対し、1万2000ユーロなら買いたいと売り手に伝えたとする。この場合、1万2000ユーロがアンカーとなり、1万5000ユーロで見積もるつもりだった売り手は、価格を下げざるを得なくなる。これがアンカリングだ。
なので、交渉の王道は、「最初は大きく出て、その後徐々に譲歩していく」となる。ちなみに、子どもは本能的にアンカリングの使い方を知っているという。最初に「ディズニーランドに行きたい」と言い、それから「アイスクリーム1個が欲しい」という本当の要求を伝えてくるのがその一例だ。
ただ、大人はもう少し賢くやる必要がある。2万ユーロの希望小売価格の車を買う場合、目標としては1万7500ユーロまで下げたいのなら、アンカーは1万5000ユーロで始める。ただし、なぜその価格を出すのかを、金額を告げる前に説明する。そうすれば、相手に嫌な感情を起こさずにすむ。言い方としては、「車の装備はすばらしいし、希望価格の設定はきっと妥当なのだと思うが、残念ながら私には決まった予算があってそれ以上は1ユーロも出せないため、ほかの誰かに車を売りたいというならそれも致し方ない」というふうに。
また、「中間点のルール」というのがあって、交渉結果はえてして自分が出す最初のオファーと交渉相手からの最初のオファーの真ん中前後で手が打たれることが多い。なので、アンカーとなる数字は、ダメもとで自分にかなり有利な額を出すのが好都合となる。
自分に有利なアンカリングの数字を出して、望む交渉結果を近づけよう
本書で説かれる交渉術は、上で取り上げたような、心理学に基づいた腑に落ちる手法で占められている。「ドイツ式」とはあるが、われわれ日本人でも抵抗なく使えるものがほとんどなので、「読んでためになったけど、次の日にはすっかり忘れる」という「ビジネス本あるある」に陥らず、実用性は高い。特に営業など対外的な業務が多い方には、おすすめしたい1冊だ。
文/鈴木拓也(フリーライター兼ボードゲーム制作者)