誰もが1週間に40時間も交渉している
「今日あなたは、ここに来るまでにどんな交渉をしましたか?」
これは、ミュンヘン・ビジネススクールで、リーダーシップ・組織論を専門とするジャック・ナシャー教授が、交渉術セミナーで出席者に最初にする質問だ。
「交渉」と言われても、渉外や契約に関連した職種以外の人には、いまひとつ思い当たるものがないかもしれない。
だが、ナシャー教授によれば、上司と昇給について相談するのも、配偶者と夕食はなににするかを決めるのも、髪を染めたがる息子の意思を翻意させようとするのも、すべて交渉なのだという。そう考えれば、「私たちは週に40時間近くを交渉に費やしている」という、研究者の試算ももっともなことだと思える。
それほど時間をかけているのだから、「交渉するたびにいまよりもっといい結果を引き出せるようになれば、私たちの生活の質は確実にアップする」と、ナシャー教授は著書の『望み通りの返事を引き出す ドイツ式交渉術』(安原 実津訳、早川書房)で力説する。
300ページを超える分厚い本書に散りばめられているのは、交渉の「プロ」でもあるナシャー教授の、明日から使える交渉ライフハックの数々だ。読み通すのは大変だが、それに見合う価値はある。今回は、そのいくつかを紹介しよう。
BATNAなしで交渉してはいけない
BATNA(バトナ)とは、「Best Alternative to Negotiated Agreement」の略で、交渉不成立時の最良の代替案のこと。ナシャー教授は、BATNAがないまま交渉に臨んではならないと説く。なぜなら、「BATNAがなければあなたの立場は弱くなり、思うような成果を上げられなくなる」からだという。例として、初めて引っ越し先のアパートを探している時の心理状況がある。
「どうしてもこの部屋を買いたい。交渉がうまくいかずにもしこの部屋を買えなかったら、また何か月もインターネットで物件を探して、なかを見せてもらう約束を取りつけて、同じことを繰り返さなきゃならなくなる」(本書62pより)
これだと貸主との交渉がなにかと弱腰になってしまい、立場はおのずと弱くなる。BATNAがないからだ。
だから、ナシャー教授は、ほんの数十分の労力を払って、事前にインターネットで似た条件の物件を候補に入れ、それから貸主との交渉に臨むようアドバイスする。ちょっと調べてみれば、類似物件を探すくらいなら「何か月も」かかるものではないことも、すぐわかるはずだ。
これは、新車の購入から取引先からの資材調達まで、すべてに当てはまる。BATNAなしで交渉を行ってはならないという社内規則を定めている企業があるくらいだという。特に重要な交渉をどこかの企業とする場合、交渉相手のライバル会社を探して、そことあらかじめ交渉しBATNAを確保することを、ナシャー教授はすすめる。それを本命の交渉相手に提示することで、「立場は何倍も有利になる」からだ。
感情を大事にする
特に企業間の交渉では、理性的なやりとりに終始し、感情が立ち入る隙間はないように思える。
しかし、ナシャー教授の見解は逆だ。「私たちの行動の源は、ほとんどが感情」であり、「交渉中のふるまいに関しても、いくら私たちがあとからもっともらしい理由をつけて説明しようとしても、実際に交渉の場で言動を左右しているのは感情」だという。
問題なのは、感情がネガティブなものだと、後悔する結果が伴うことが往々にしてあることだ。極端な話、本来の目的はどこへやら、互いに心理的ダメージを与えようと言葉の応酬に発展することもある。
こうした事態を防ぐため、ナシャー教授は何点かのアドバイスをしている。その1つが、「反論しない」だ。
なぜこれが大事かというと、反論しても相手は態度を硬化させるのがオチで、仮にその小競り合いに勝ったとしても、結局は「あなたの負け」だからだ。つまり、交渉でもともと獲得したかったものは、まず得られることはない。
ではどうすればいいかと言うと、「あなた個人への攻撃を、あなたが非難を受ける原因となった問題自体への攻撃にすりかえられるような、新しい解釈を付け加える」。例えばこうだ。
「あなたは私が家族を全然かえりみないと言いますが、私だって自分の一番身近な人たちと十分な時間を過ごせていないことを申し訳なく思っているんです。これからはしょっちゅう出張に出なくてもすむプロジェクトだけにかかわれるよう、最大限努力するつもりですよ」(本書115pより)
この例では、あなたへの個人攻撃を、出張が多いことへの攻撃へとすりかえ、出張を減らすという方向性を見せることで、その先の非難合戦を回避している。
もう1つの方法は、「相手の意表をついて、相手に同意を示す」。
「おっしゃるとおりですね。私があなたの立場だったら同じように腹を立てると思いますよ」(本書116pより)
これで相手は、非難の矛先をあなたに向けるのをストップするはずだ。
もっとも、根っこにある原因は感情だからと、それを完全に心の奥底に押し込める必要はないという。むしろ、「当社のオファーでなく、ライバル社のオファーが選ばれたので、悔しく思っています」というように、どう感じているかは相手に告げてしまってかまわないそうだ。ナシャー教授は、はっきり言ったほうが「うまくいく」、ただし、言い方には気をつけよと明言している。