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引退後4年の浪人生活を経てさいたま市議会議員に、元サッカー日本代表の守護神・都築龍太の挑戦

2019.09.05

【Jリーガーたちのセカンドキャリア】 都築龍太(元日本代表GK/さいたま市議会議員)

 2007年11月14日、埼玉スタジアムは5万9000人超の大観衆で埋め尽くされていた。浦和レッズは日本勢初のアジアチャンピオンズリーグ(ACL)王者を賭けて、イランの強豪・セパハンと決勝第2レグに挑んだ。前半に永井雄一郎(FIFTY CLUB)の先制点が生まれ、後半には阿部勇樹(浦和)が追加点を挙げるなど、順調な試合運びを見せた浦和。終盤の相手の猛攻を防ぎ続けたのが、背番号23をつけた守護神・都築龍太だった。彼の好守で敵を零封し、浦和は2-0で完勝。アジアの頂点に輝いたのだ。

32歳での「早すぎる」引退の理由

「アジア制覇もJリーグ優勝もあったし、大きな試合に負けたこともあった。代表でもプレーできましたし、自分のサッカーキャリアは本当に充実していました」と都築氏はしみじみと現役時代を振り返る。
とりわけ、この2007年は彼にとって思い出深い年。元日の天皇杯決勝・ガンバ大阪戦はひと際深く脳裏に焼き付いているという。

「2006年に浦和がJ1初制覇を飾った時、僕は大宮アルディージャ戦でひざのじん帯を切って試合に出ることができなかったんです。その悔しさを抱えていた僕をギド(・ブッフバルド監督)がシーズンラストの天皇杯決勝に出してくれて、1-0で勝つことができた。あれは本当に嬉しかったですね」と爽やかな笑みをのぞかせる。
 その前後には日本代表でもプレーし、川口能活(U-22日本代表GKコーチ)や楢崎正剛(名古屋クラブスペシャルフェロー)らに続く地位を勝ち得そうな時期もあった都築氏。しかし、2011年1月に突如として引退を発表する。名門・国見高校から97年にガンバ大阪入りし、浦和、湘南ベルマーレで足掛け13シーズンを戦った32歳のGKの決断は「早すぎる」と見る向きも強かった。

「2010年は6月から湘南にレンタル移籍したんですけど、翌シーズンは湘南残留も浦和復帰の道もなく、新天地も思うように見つからない状況でした。その現実が選手としての自分の評価だと感じたし、『だったら自分らしくきっぱりやめよう』と考えました。ちょうど同じ頃、埼玉県議会議員選挙にさいたま市緑区から出馬する話をもらったんです。自分としては引退後の空白期間が1~2年はあってもいいと思っていたし、政治家なんて全く考えていなかったけど、知人に強く勧められて『じゃあやってみよう』と思い立ったんです」

 投票日は2011年4月10日。選挙運動をするにも2カ月しかない。気合を入れて活動しようとしていた矢先の3月11日、東日本大震災が発生。これが無所属の新人候補の大きな逆風となり、いきなり落選の憂き目に遭った。
「『次もやるのか、それともやめるのか』を3カ月から半年間かけて考えました。正直、僕は政治の素人だった自分が落ちるのは当然だと思いましたけど、きっかけはどうあれ投げ出したくなかった。最初の選挙を応援してくれる人もいましたし、家族も黙ってサポートしてくれた。そういう人たちを裏切りたくないという思いが物凄く強くて、『やっぱりもう1回やろう』と決意しました。迷っている時は精神的にも中途半端な状態でしたけど、『4年後のさいたま市議会議員選挙に出るんだ』とハッキリ目標を定めたら、スッキリした。前向きな気持ちになれました」

Hiroki Watanabe/Getty Images Sport

初当選までの道

 そこから本気で政治活動に取り組み始めた都築氏。新聞を隅から隅まで熟読し、長女が通っていた小学校のPTAに参加し、住んでいた地区の自治会活動にも積極的に足を運ぶようになった。さいたま市の駅前で念複数回ビラを配って住民の意見を聞くといった試みにもトライした。
「選手時代は相手から挨拶されるのがほとんどだったんで、自分から『こんにちは』『ありがとう』と頭を下げたり、握手を求めたりすることを消化しきれず、どこか恥ずかしさを覚えた自分がいたのも事実です、頭の切り替えは正直、難しかった。そういう意識を消し去る意味でも4年という空白時間があったのはよかったと思いますね」と都築氏は前向きに語る。

 浪人期間は基本的に無収入ということになるが、都築氏は選手時代の蓄えに加え、サッカー仲間から紹介された日本サッカー協会「ユメセン(夢先生)」の仕事やサッカーイベント出演など、できることは何でもやった。現役時代はヤンチャな一面があり、社交的なイメージも薄かった彼が、異なるキャラクターに変貌しつつあったのが、2015年までの苦しんだ4年間だったのである。

「PTAや自治会活動に行くようになって分かったことは本当に多かったです。2011年の震災発生後は『防災の重要性』がよく話に出ました。一例を挙げると、体育館が3階にある学校。『このままじゃ子供たちが安心して避難できない』『体育館や校舎の耐震基準を見直すべき』と懸念する保護者の方がいて、僕も子を持つ親の1人として、気持ちがよく分かりました。
 さいたま市は災害が少ない地域ではありますが、東京で働いている人が多いし、災害が起きたら帰宅難民が続出する。その人たちが荒川を超えて安全に帰ってこられるような道の整備もしなければいけない。そういう住民の人たちの声を実現するのが政治家の仕事なんだと強く感じる日々でした。沢山の人と向き合いながら信頼関係を作っていくことがどれだけ大切かも痛感しましたね」

 迎えた2015年。都築氏はさいたま市議会議員選挙に緑区から自民党公認で出馬。念願だった初当選を果たした。駅でビラ配りを手伝ってくれた地元の若いサッカー指導者、PTAや自治会で関係を築けた人々、そして家族の恩に報いることができたと感無量だったという。
 ただ、実際に議会がスタートしてみると、議員1年生には分からないことだらけ。予算書も読めなければ、役所の人との意思疎通の仕方も分からない。そこはサッカー選手時代に培った強心臓を武器に自分からどんどん働きかけていった。

「市議会議員の中で一番学歴のないのが僕だったんで、ヘンなプライドがなく、『予算書が読めないから教えてください』と素直に言えた。それがよかったのかなと思うんです。議会で前に出て質問するのも緊張しましたけど、1つ1つトライ&エラーを繰り返しながら覚えていくしかなかった。それが一番の勉強になりました」

さいたま市のスポーツ・教育環境向上のために全力を注ぐ!

 そうやって地道な活動を積み重ねて最初の任期を満了。今春に二選を果たした都築氏が目下、熱心に取り組もうとしているのが、スポーツと教育環境の問題だ。さいたま市には駒場運動公園、荒川総合運動公園など複数のスポーツ施設があるが、設備的に十分と言い切れないところがある。エリア別の施設の有無にも差があり、新興開発地区の緑区は人口増に対応しきれていない部分もあるようだ

「駒場スタジアムに関しては、来年度には照明塔がLED化されるので、Jリーグのナイトマッチ開催も可能になります。レッズの試合は集客力のある埼玉スタジアムがメインですけど、駒場開催の道も開けてくると思います。それ以外のスポーツ関係だと、さいたま市にある160校の小中学校・高校の人工芝化を進めたいですね。今は運動会で組体操ができなくなっているケースが多くて、子供たちの基礎体力も下がっていると聞きます。校庭が人工芝になって、安全性が高まれば、また組体操ができるようになるかもしれないし、体力低下に歯止めをかけられるかもしれない。そうなるように仕向けていきたいです。

 教育に関しては、子供が教育現場の主役になるようにしていくことが重要。僕も子供を学校に通わせていますけど、今は親と先生の関わりがメインになっている。昔のように親や先生が正面切って子供を怒ったり、指導できなくなっている中、どうすれば健全な教育環境を作れるのか。そこは多くの親御さんたちが悩んでいるので、僕も環境整備の一助になれるように努力したいです」いどみつ

いのない時期は午前中に少年サッカーに顔を出し、昼からスーツに着替えて自治会やPTA、夜は支持者との会合に参加するといった慌ただしい日々を過ごしている都築氏。そこで人々からの耳にした意見を具現化するために、彼は精力的に動き続けている。9月からは市議会も再開されたが、夏場の休会期間はそのための準備や勉強にも余念がなかったという。こういった前向きな姿勢は地元・さいたま市緑区の人たちの豊かな生活につながるし、サッカー界にも大きな刺激を与えるはず。都築龍太という元日本代表守護神のセカンドキャリアがさらに大きく花開くことを強く願いたいものだ。


都築龍太
1978年4月、奈良県生駒郡平郡町出身。国見高校卒業後、97年にガンバ大阪入り。2001年に日本代表に初招集される。2003年に浦和レッズへ移籍し、2007年にはACL制覇に貢献。2010年6月に湘南ベルマーレへレンタル移籍し、2011年1月に現役引退を決断。1・250試合、日本代表6試合出場した。引退後は政治家へ転身し、2011年4月の埼玉県議会議員選挙に初出馬も落選。4年間の浪人生活を経て、2015年4月のさいたま市議会議員選挙にに初当選。2019年4月に2選を果たし、現職を務めている。家族は妻と子供2人。

取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。

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