日の丸を背負う選手がいなくても、自分の応援するクラブが一番
一方で、99年のJリーグ1・2部制スタート時から2部入りした川崎フロンターレのような後発クラブがJ屈指の強豪に成長したことも見逃せない点だ。川崎は全身であるJFL・富士通時代からFC岐阜の大木武監督、サンフレッチェ広島の城福浩監督ら優秀な人材を擁していたクラブ。だがJ参入に慎重な姿勢を示していて、動き出しが遅れた。2000年にJ1初昇格を果たすも1年で降格。2004年までJ2に在籍したが、大卒新人の中村憲剛やジュニーニョ、我那覇和樹(讃岐)といったその後の飛躍の土台を築くメンバーが加入。関塚隆監督(現日本サッカー協会技術委員長)体制では彼らが大きく飛躍し、川島永嗣(ストラスブール)らの加入もあって、ACL出場常連となった。それでもタイトルだけには手が届かず、2017年まで長い時間を要したが、その間には地域密着が加速。等々力競技場の改修も追い風となってスタジアムは毎試合ほぼ満員という状況が当たり前になった。今や彼らは「地域に根差したスポーツクラブ」というJリーグの理念を体現する成功モデルと目されている。
Jのクラブ数が当初の10からJ1~J3合計54クラブに広がり、その下のジャパンフットボールリーグ(JFL)や地域リーグを含めれば、100近いクラブが全国で活動するようになったのを見ても、地域密着なくしてJの発展と進化は語れない。
かつて「サッカー後進地域」と言われた東北には、J1のベガルタ仙台を筆頭に、J2のモンテディオ山形、J3のヴァンラーレ八戸といわてグルージャ盛岡、ブラウブリッツ秋田、福島ユナイテッドと合計6チームがあるし、北信越にしても今季2度目のJ1参戦を果たした松本山雅を筆頭に、J2のアルビレックス新潟とツェーゲン金沢、J3の長野パルセイロとカターレ富山の合計5クラブがしのぎを削っている。
このように全国各地にチームができたことで、今のサッカーファンは「自分の応援するクラブが一番」という考え方になった。90年代は「Jリーグより日本代表」と考える人々が圧倒的多数を占めたが、今は「代表にはあまり関心がないけど、支持するクラブの動向はつねに気になる」というサポーターの方が多い印象だ。わが故郷の松本山雅を見ても、熱狂的サポーターがクラブをつねに支えているから、日の丸を背負う選手がいなくても、J2に降格しても平均1万2000人の観客がサンプロ・アルウィンに集まってくる。こうした変化も平成のJリーグを象徴するものだ。
間もなく令和の時代に突入するが、Jクラブ数は増え、全国各地へ広がっていくだろう。「地元を応援する」という文化も一段と醸成されていきそうだ。「スター選手を見に行くのではなく、自分のクラブに愛を捧げる」という姿は、イングランドやドイツ、イタリアといったサッカー大国でもよく見られる光景だ。そういう意味でも日本のJリーグ文化は世界基準になりつつあると見ていいのかもしれない。そういう環境から優れたタレントが出て、ピッチ上で躍動し、日本サッカーをレベルアップさせてくれれば、理想的な循環になるはず。次世代を担うクラブ、そしてスター選手の登場を願ってやまない。
取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。