ダイソンが発表した、同社初のオーラルケア製品『Dyson CameraJet フロッサー付き電動歯ブラシ』(以下、CameraJet)が注目を集めている。最大の特徴は、歯ブラシにカメラを搭載したこと。
歯磨き中にカメラが歯と歯の隙間を見つけると、歯間に向けてジェットを自動噴射。これによりブラッシングと歯間ケアを同時に行なえるという、これまでにない製品だ。
価格も7万9800円と、歯ブラシとしては驚くほど高額である。
驚くべきは価格だけではない。『CameraJet』は開発に6年を費やし、携わったエンジニアはハードとソフトを含めると661名。
製品は1600万行のコードで制御され、歯間を検知する機械学習システムのために47万枚以上の歯科画像を収集したという。
いったい、歯ブラシ1台になぜここまで大がかりな開発が必要だったのだろうか? 今回、シンガポールにあるダイソン本社を訪問。
『CameraJet』の開発現場を見学するとともに、新製品開発を率いたリッチ・ベーコン氏に話を聞いた。
ダイソンが目を付けた「フロスが続かない」問題
『CameraJet』はダイソンとしては初めてのオーラルケア製品だ。この分野の参入にあたり、同社が最初に目を付けたのは「歯間ケアが続かない」という全世界に共通する問題。
近年、歯周病は口の中だけの問題ではなく、心臓病や糖尿病、認知症など、全身の健康との関連が指摘されている。これにより歯間ケアの重要性は高まっているが、歯磨きのあとにフロスや口腔洗浄器を使うのは手間も時間もかかる。
歯ブラシによるケアだけでは歯の汚れの6割しか落とせないといわれているが、ダイソンが以前行った調査では、なんと10人中9人が十分な頻度でフロスを使用していないそう。
重要だとわかっていても、毎日の習慣として続けるのは難しいのだ。そこでダイソンが考えたのが「歯磨き」という工程のなかに歯間ケアを組み込むことだった。
『CameraJet』は、ブラシヘッドの根元に10万画素のマクロカメラを搭載。ブラッシング中にカメラが歯と歯の隙間を見つけると、本体に入れた水またはマウスウォッシュを歯間に向けて自動で噴射する。
ユーザーは自分で歯間を探してノズルを向ける必要がなく、普段と同じように歯を磨くだけでブラッシングと歯間ケアを同時に行なえる。
しかし、動き続ける歯ブラシから小さな歯間を見つけ、正確なタイミングでジェットを当てるのが簡単ではないことは想像に難くない。
『CameraJet』を成立させた「視覚認識・ジェット・ブラッシング」の3技術
この難題を解決し、『CameraJet』を量産まで導いたのが、ダイソンで『CameraJet』の開発をコンセプト段階から量産まで統括したリッチ・ベーコン氏だ。
現在は『CameraJet』本体と周辺機器を含む、オーラルケア新製品の開発責任者を務めている。
ベーコン氏が『CameraJet』のプロジェクトに加わったのは2023年。当時は英国で開発が進められており、「視覚認識」「ジェット」「ブラッシング」という3つのコア技術を、それぞれ個別に実証している段階だった。
その後、氏はプロジェクトを英国からシンガポールへ移管し、現地にエンジニアリングチームを構築。3つの技術をひとつの製品にまとめて製品化にこぎ着けた。
「視覚認識」では、動いている歯ブラシから歯間を見つけられるか。「ジェット」では、検知した歯間へ少量の液体を正確に噴射し、汚れを落とせるか。そして「ブラッシング」では、歯の表面や細かな凹凸に付着した歯垢を落とせるか。
まずはそれぞれの技術を成立させ、その後、互いに連動させながら歯ブラシの中へ収めていったのだ。
複雑な構成だけに、『CameraJet』はダイソンの開発力をもってしても開発に6年かかった。
ハードウエアからソフトウエアまで、全領域を合わせて661名のエンジニアが携わり、現在38件の特許を出願中だ。
一見すると1本の電動歯ブラシだが、その内部には、性質の異なる複数の技術を同時に機能させるため苦労が詰め込まれている。
47万枚以上の画像で、世界中の「歯の隙間」を学習
3つの技術のなかでも『CameraJet』を特徴づけているのが、カメラを使って歯間を検知する「視覚認識」だろう。
わずか約1mm角のカメラは毎秒28枚の画像を撮影し、ダイソン独自の機械学習アルゴリズム「Gap Optical Targeting」がリアルタイムで歯間の位置を解析する。
ただし、画像から歯間を見つけるだけでは、そこにジェットを当てることはできない。
歯磨き中のブラシは常に動いているため、カメラが歯間を認識してからジェットを噴射するまでのわずかな時間にも、噴射口の位置は変わってしまうからだ。
そこでGap Optical Targeting技術は、ブラシの動きと歯間の位置を追跡し、噴射口が適切な位置に来るタイミングを予測。
歯間を検知してから0.1秒以内にジェットを噴射する。単に歯間を「見つける」だけでなく、動き続けるブラシの位置を先読みして狙うことがポイントなのだ。
もちろん人によって歯や口の中の状態は大きく異なっている。そこでダイソンは、世界中のさまざまな口腔内に対応できるよう、機械学習システムの開発に47万枚以上の歯科画像を収集。
データを積み上げることでカメラが歯と歯の隙間を見分ける精度を高めていった。
なお、カメラで撮影した画像や動画は、本体にもアプリにも保存されない。
アプリに記録されるのは、ブラッシングした位置や時間などのセンサーデータのみ。口の中を撮影する製品だけに気になるプライバシーにも配慮されている。
開発責任者のお気に入りは、カメラではなく12.5mlのタンク
『CameraJet』には、電動歯ブラシとしての機能に加え、カメラや画像認識技術、歯間へ液体を噴射するフロッサーなど、従来の製品とは比べものにならない多くの技術が詰め込まれている。
そんななか、開発責任者であるベーコン氏が「お気に入り」として挙げるのは、意外にも本体内部にある液体タンクだ。
『CameraJet』で重要なのは、歯間ケアを意識することなく、普段どおり歯を磨いている間にフロスまで終えられること。
そのためには、フロッサーを搭載することで本体が大きく、扱いにくくなってしまっては意味がない。とくに本体へ組み込む液体タンクは、できるだけ小さくする必要があった。
そこで『CameraJet』で採用したタンクの容量は、わずか12.5ml。一般的な口腔洗浄器と比べても驚くほど小さい。それでも1回約0.1mlのジェットを最大約80回噴射でき、1回の歯磨きで歯間全体をケアできるよう設計されている。
さらに難しいのが、歯磨き中は本体の向きが絶えず変わることだ。
奥歯を磨くときは横向きになり、持ち方や磨く場所によっては大きく傾く。一般的なストローのような構造では、液体の位置によって空気を吸い込み、安定して噴射できない。
そこで、タンクの内部に袋状の構造を採用。水が減るのにあわせてタンク内部の膜をバルーンのように膨らませ、タンク内に空気の隙間ができるのを防ぐのだ。
これなら本体を横向きや逆さにしても、最後まで安定して噴射ができる。
ベーコン氏は「製品には多くの電子技術が使われていますが、このタンクはシンプルながら問題を解決する、とてもエレガントなエンジニアリングです」だという。
派手なカメラや機械学習ではなく、一見地味なタンクを選んだところに開発責任者らしい視点が感じられた。
人工歯垢まで開発し、ロボットに歯を磨かせるこだわり
ところで、わずか12.5mlの液体で本当に歯間の汚れを落とせるのか、心配になる人もいるだろう。
そこでダイソンが工夫したのが、ジェットの形状だ。一般的な口腔洗浄器のように細い水流を一直線にジャバジャバと当てるのではなく、液体を円すい状に広げて瞬間だけ噴射する。
広い範囲へ細かな液滴を当てることで、少量でも歯間全体をカバーできるうえ、水圧が一点に集中しないため、歯や歯茎への刺激も抑えられるメリットもある。
ダイソンでは、少量のジェットで歯垢汚れを落とすため、さまざまな試行錯誤をしている。おもしろいのが、シンガポール国立大学との共同研究で、口の中の歯垢がもつ物理的、化学的な性質を再現した独自の人工歯垢を開発までしたことだ。
これを歯列模型へ塗り、ジェットやブラッシングによる除去前後を3Dスキャンで比較。この結果をもとにさまざまな改良をして、現在の「少量の液体でも歯間の汚れが落とせる」製品になった。
さらに、ブラッシング性能の検証にはロボットアームも活用。人が歯を磨くと力の入れ方や角度、動かす速さが毎回変わってしまうが、ロボットなら同じ条件で繰り返し試験できる。
ブラシヘッドやジェットの設計を変えるたびにロボットで検証することで、臨床試験へ進む前に数多くの試作を効率よく比較できたという。
一方、実際のユーザーはロボットのように決まった動きで歯を磨くわけではない。
そこでユーザートライアル施設では、一方向ミラー越しに参加者の自然な磨き方を観察。左右どちらの手で持つか、ブラシを当てる角度や動かす速さ、どの部分に時間をかけ、どこを磨き残しやすいかなどを記録した。
こうして実験室で作り込んだ性能と、現実の使い方とのズレを修正していったそうだ。
こうして汚れ落ちや使い勝手を作り込んだあとも、開発は終わらない。毎日使う歯ブラシとして、長期間の使用に耐えられるかを確認する必要があるからだ。
今回、ベーコン氏への取材とは別に、ダイソン本社にある『CameraJet』の研究開発施設も見学させてもらったが、品質管理の徹底ぶりに驚いた。
充電ドックへの脱着や、替えブラシの付け外し、歯の模型へブラシヘッドを当てた状態での運転など、日々の歯磨きで何気なく繰り返す細かな動作まで、専用の装置を使って耐久性を検証していた。
印象的だったのは、ラボ内が驚くほど明るく整然としていたことだ。
筆者はこれまで多くのR&D施設を見てきたが、教室のような室内に所狭しと試作品や測定機器が並び、複数のエンジニアが作業していることが多い。
一方、ダイソン本社の品質管理ラボは、白く明るい室内に人の姿がほとんどなく、並んだロボットが黙々と試験を繰り返している。
人為的なばらつきを極力なくし、休むことなく試験を続けることで、短期間に長期使用による変化を確認できるのだろう。徹底して自動化された光景は近未来的にも見える。
『CameraJet』はダイソンのオーラルケア参入の第一歩
電動歯ブラシは年々進化している。何年も前から、ブラシの位置を検知して磨き残しを知らせたり、ブラシの動きを工夫して歯垢除去力を高めたりする製品が登場してきた。
しかし、どれだけ高機能になっても、基本はブラシで歯を磨くもの。その大本の構造は長く変わっていない。
これに対して『CameraJet』は、それまで歯磨きとは別に行なっていた歯間ケアを、フロッサーとして歯ブラシに組み込んだ。
単にブラッシング性能を高めるのではなく、歯磨きそのものの役割を広げた点で、これまでとは異なる進化といえる。
取材の最後に今後の展開について聞いたところ、ベーコン氏は、『CameraJet』に続いて周辺機器を含む新たなオーラルケア製品も現在開発中であると語った。
また、『CameraJet』はカメラを搭載し、スマートフォンとも連携するため、将来的にはカメラを利用して歯科医と連携したり、離れた場所から口の中の状態を確認したりする可能性も考えられるという。
もちろん、現時点ではあくまで構想の段階で、現在の『CameraJet』にこうした機能が搭載されているわけではない。
しかし、歯ブラシにカメラと通信機能が加わったことで、オーラルケアは単に「歯を磨く」だけではない段階へ進み始めたと感じた。『CameraJet』が今後どのような製品やサービスへつながっていくのか、これからの展開にも注目したい。
取材・文・撮影/倉本 春
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