「感謝すると健康に良い」この言葉は多くの人が一度は耳にしたことがあるでしょう。
しかし、忙しい日常の中で「感謝が病気の予防につながる」と本気で考える人は、まだ多くありません。感謝は心の在り方の問題であり、健康とは別物だと感じている人も多いはずです。
ところが近年、医学・脳科学・心理学の研究が進むにつれ、感謝の感情が単なる気分の問題ではなく、脳・神経・ホルモンを介して身体に具体的な影響を与えることが明らかになってきました。
感謝は精神論ではなく、心身の状態を整え、病気のリスクを下げる可能性を持つ、生理学的な反応なのです。
感謝と健康の繋がり
健康を考えるとき、私たちは食事や運動、睡眠といった生活習慣に注目しがちです。しかし同じ生活習慣でも、病気になる人とならない人がいるのはなぜでしょうか。
その違いの一つが、日常的な感情状態です。慢性的なストレスや不安、怒りは、自律神経を乱し、免疫や内分泌系に悪影響を及ぼします。一方、感謝の感情が生じているとき、脳ではリラックス状態を示すα波が出やすくなり、副交感神経が優位になります。この状態では、心拍や血圧が安定し、体は「回復・修復モード」に入ります。
さらに、感謝を感じたときに分泌されるオキシトシンは、不安や恐怖を和らげ、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を抑える働きがあります。これは、体が「安全で安心できる環境にいる」と判断しているサインです。
感謝とは、脳と体に「今は大丈夫だ」と伝えるメッセージだと言えるでしょう。臨床の現場で多くの患者さんを診ていると、検査値や生活習慣がほぼ同じでも、回復のスピードや不調の出方に差があることを実感します。その差を分けている要因の一つが、「日常的にどのような感情状態で過ごしているか」です。
常に焦りや不満、怒りを抱えている人は、体が緊張状態から抜けにくく、回復に時間がかかる傾向があります。一方で、困難な状況の中でも小さな感謝を見出せる人は、同じ治療を受けていても、体調の立て直しが早いことが少なくありません。
これは「気の持ちよう」ではなく、感情が自律神経や免疫系に影響を与えている結果だと考えられます。感謝は、健康を支える土台となる生体の調整機能そのものに働きかける感情なのです。
心疾患リスクを下げる感謝の習慣
心疾患の発症には、高血圧や脂質異常症、糖尿病といった生活習慣病が深く関わっていますが、これらの背景には慢性的なストレスが存在することが少なくありません。ストレスが続くと交感神経が過剰に働き、血圧上昇、動脈硬化、炎症反応の亢進が起こりやすくなります。近年注目されている指標の一つが心拍変動(HRV)です。HRVは心臓のリズムの柔軟性を示す指標で、値が高いほど自律神経の調整力が高く、心血管イベントのリスクが低いとされています。感謝の習慣を持つ人ほどHRVが良好であることが、複数の研究で報告されています。また、感謝日記や感謝想起を行う介入研究では、血圧の低下や炎症マーカーの改善が見られたという報告もあります。感謝は直接的に薬のように作用するわけではありませんが、ストレスを軽減し、結果として心臓や血管への負担を減らす働きを持っているのです。
心疾患予防というと、どうしても「減塩」「運動」「禁煙」といった行動面に注目が集まります。もちろんそれらは重要ですが、実際には「分かっていても続かない」という声が非常に多いのが現実です。ここで重要になるのが、感謝によるストレス反応の軽減です。慢性的なストレスは、血管内皮機能を低下させ、動脈硬化を進行させることが分かっています。感謝の習慣によって交感神経の過剰な緊張が和らぐと、血管は本来のしなやかさを取り戻しやすくなります。
つまり感謝は、生活習慣を直接「正す」というよりも、心疾患を引き起こしやすい体の状態そのものを改善する方向に働くと考えられます。これは、忙しくて完璧な健康習慣を実践できない人にとっても、大きな意味を持つ視点です。
感謝することで認知症のリスクを下げられる
認知症は加齢だけでなく、心理的・社会的要因の影響を強く受ける疾患です。慢性的なストレス、抑うつ、不安、社会的孤立は、いずれも認知症のリスクを高めることが知られています。
感謝の感情は、感情調整や意思決定を担う前頭前野の働きを保ち、恐怖や不安を司る扁桃体の過剰反応を抑える作用があります。これによりストレス耐性が高まり、精神的な安定が得られやすくなります。
さらに、感謝の習慣を持つ人ほど睡眠の質が良いという研究報告もあります。睡眠は脳の老廃物を排出し、記憶を整理する重要な時間であり、睡眠障害は認知症リスクを高める要因の一つです。
感謝が睡眠を介して脳の健康を守っている可能性も考えられています。感謝が認知症を直接予防するわけではありませんが、認知症のリスク因子を多方面から下げるという点で、大きな意味を持っています。
認知症予防の分野では近年、「脳をどれだけ使うか」だけでなく、「どのような感情状態で生きているか」が重要視されるようになってきました。慢性的な不安や抑うつは、脳の可塑性を低下させ、認知機能の低下を早める可能性があります。
感謝の感情は、脳にとって「安全で意味のある刺激」として作用します。これは脳の過剰な警戒を和らげるだけでなく、人とのつながりを肯定的に捉える力を保つことにもつながります。
社会的つながりが保たれている人ほど、認知機能の低下が緩やかであることは、多くの疫学研究でも示されています。感謝は、脳を鍛えるというよりも、脳が衰えにくい環境を整える感情だと言えるでしょう。
健康行動を促す心理メカニズム
感謝が健康に与える影響を語るうえで欠かせないのが、「行動変容」という視点です。どれほど正しい健康情報を知っていても、実際の行動が続かなければ、健康状態は変わりません。
医療の現場では、「分かっているけれどできない」「始めても続かない」という声を、日常的に耳にします。その背景にあるのは、患者さんの意志の弱さではなく、自己否定や無力感、慢性的な疲労や孤立感といった心理的要因です。
自己否定が強い状態では、「どうせ続かない」「自分には無理だ」という思考が先に立ち、運動や食事改善、服薬といった健康行動は長続きしません。感謝の感情は、こうした心理状態に静かに作用します。
感謝を感じることで、「自分は支えられている」「やってみよう」という自己効力感が回復し、行動へのハードルが下がるのです。その結果、健康的な選択をしやすくなり、無理のない形で継続できるようになります。
感謝は、意志の力を無理に強めるものではありません。行動を妨げていた心理的ブレーキを外す役割を果たしているのです。
感謝は特別な能力でも、前向きな人だけが持つ資質でもありません。日常の中でほんの一瞬立ち止まり、「ありがたい」と気づくことから始まります。その小さな習慣が自律神経を整え、心臓や脳を守り、健康的な行動を後押しする。
感謝は、誰にでも使える、静かで確かな健康戦略なのです。
文/野上徳子
のがみ・とくこ。医師/心理カウンセラー。久留米大学医学部卒業後、岡山大学第一内科に入局し、複数の病院勤務を経て現在は松山市内の病院で内科診療に携わる。神経学・生理学の視点から「心と身体のつながり」を探究し、産業医・オンラインカウンセリングなど幅広く活動。医療と意識の関係をテーマにしたオンラインイベントも主催している。臨床経験を踏まえ、心身両面からのアプローチで、日々の健康づくりや生き方の再構築を支援している。







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