観光地として有名な静岡県熱海市。4月にDMO(Destination Management Organization/観光地域づくり法人)の『熱海観光局』が発足し、ますます観光に力が入る中、最近ではワーケーションやリトリート、移住や二拠点生活の地としても注目されている。
そんな熱海の銀座商店街に、レトロな造りで目を引く洋風居酒屋がある。もともと東京・三軒茶屋で店を構え、2020年のコロナ禍に熱海・渚町に移転した『marunowa』だ。その後2025年1月に現在の場所に移り、熱海で人気を博した喫茶店『加奈』の物件をそのまま活用している。家具や食器も『加奈』のものを引き継ぎ、昭和を感じるレトロな風情を感じることができる空間だ。
ウニやイクラ、ズワイガニが「これでもか!」と言わんばかりにのった『オマールエビの茶碗蒸し』や、『ホタテとアボカドのタルタル(グリーンペッパーソース)』、地元・熱海のパンを使った『白レバームース 菊香堂の黒糖パンとラムレーズン』に『地魚のフライ』など、見た目も美しくお酒に合う料理が並ぶ。魚介だけでなく、伊豆のジビエ、熱海近郊の畑から届く野菜など、四季折々の素材をいかした料理も提供される。
そんな熱海の人気店をシェフとして運営するのが、マルノワグループ株式会社代表取締役の田中雄基さんだ。熱海で生まれ育ち20歳で地元を出た田中さんは、「熱海のことが嫌いだった」と明かす。そんな田中さんは、2025年8月から熱海のDMOの飲食代表として企画委員会の1人に任命されている。今回DIME WELLBEINGでは、田中さんをインタビュー。地元が嫌いだった田中さんが熱海の地を再び選んだ理由を紹介する。
“シェフ像”を壊し自分を表現「“こっち側”で自然にやればいいかな」と考え方にも変化
高校を卒業後、地元の熱海でアルバイトをしていた田中さんは、幼い頃から料理が好きだったことから東京で料理の世界へ入った。赤坂のレストランを経て、渋谷のイタリアン、そして再び東京の銀座の星付きレストランと修行を重ね、銀座ではフランス人シェフのもとで働いた。本場フランスへ渡る機会も得て、南仏のレストランで肉料理やソースを一人で任されるなど濃密な経験を積んだ。
――もともと熱海が嫌いだったのですか?
田中雄基さん(以下、田中)「そうですね、親戚も多いし、繋がっているし。これだと、自分が何か成し得たところで『親父のおかげだ。おじさん、おばさんのおかげだ』となって、自分の実力じゃないように見える。それが当時は特に嫌に感じていました。高校を卒業してニュージーランドやアメリカにも行きましたが、東京には行ったことなかったから、東京に出ようと思って。誰も知らないところに行ってみようと、思ったんですよね」
――東京や海外で経験を積み、2013年に三軒茶屋でフレンチビストロの『marunowa』をオープンされました。
田中「フランスから戻って、東京で何かお店をやりたいと思った頃が30歳になる手前で、独立というか、『30歳までにどこかのお店で料理長になるか、自分でやるか』という2択で考えていたんです。たまたま不動産屋に入ったら、お店ができそうな三軒茶屋の物件を紹介してくれて。普通は三軒茶屋なんて(人気過ぎて)物件が絶対出ないので、何かそういう縁はあるんだなと」
――たまたまの縁で、三軒茶屋で自分のお店を持つことができたのですね。
田中「でも僕、当時、飲食店経営のことを全く知らなくて。2000万円ぐらい一気に借金したんですけど、『投資を少なくして回収を早くする』という基本情報も全く知らずに突っ込んじゃった(笑)。カッコイイお店ができたんですけど、1か月くらいお客さんが誰も来なかった」
――1か月もですか?
田中「そうですね、友達しか来なかったです。新規のお客さんを呼ぶのはやっぱり難しい。当時、看板が無いお店だったので、『看板が無いから来ないんだ。看板を作ろう』と思うくらい単純でした。当時は『美味しいものを作れば来る』と思っていましたし」
――どうやってお客さんを増やしていったのですか?
田中「特にSNS発信を頑張ったとかでもなく、もう本当に、地味に地味に少しずつ増えていった感じです。『marunowa』は三軒茶屋エリアでちょっと高価格帯だったので、若い人が多い街だから、うちには若い人があまり来ない。でもちょっと余裕があるご夫婦とかが来るようになって。そこからかな。少しずつ年齢層の高い店になっていって、だんだん『自分のスタイルってこれでいいのかな』と思えてきました」
――お客さんの層が定まったのですね。
田中「でも、やっぱりどうしても、“フランス料理”という感じでやると余裕のある層のお客さんしか来なくなるので、僕も少し迷っていました。自分より年上の人たちばかりで、『これ、なんか目指しているものと違う』みたいな感覚がありました。僕はヒップホップの音楽が好きだけど、お店ではそういうのを聴かせちゃいけないような気もしていて」
――本来の自分を隠すような感じでしょうか。
田中「その“シェフ像”みたいなものが、ストレスに感じるようになって。でも三軒茶屋の友達たちはみんな自由で、自分の好きなことばっかりやっている人が多かったんです。それで僕も好きなようにやってみようと思って、“こっち側”で自然にやればいいかなって思うようになりました。音楽も最初はお店に合うように緩めの曲かけたりしていたけど、『これは(お店に)寄せてんな』と思って。自分の好きなヒップホップやロック、ハウスとか、“働いている時に聴きたい曲”を自分で選べばいいやと思うようになって、だんだん自分が表現できるようになってきたというか」
――自分を表現するようになって変化はありましたか。
田中「自分を表現するようになると、お店も表現というか、料理だけじゃないんだなと気づき始めて。食べ物だけじゃなくて空間やその他のところ――『空間を作る』ということに徹しようと思うようになりました。料理人って1皿の完成度しか求めなくなっちゃうんで、『そうじゃない』と、この辺りから気づき始めたのは大きいです。そのうちに、音楽関係の人やデザイナーのお客さんなども増えてきて、その人たちが食べたそうな物も作るようになりました。それまではワインを飲む層が多かったけど、レモサワーやウーロンハイも出るようになった。でもどっちが良い悪いではなくて、基本はフランス料理なんだけど『飲みたいものを飲んで、食べたいもの食べてもらえばいいのかな』と考えるようになったのも変化ですね」
熱海の有名喫茶店を活用「海鮮丼とかスイーツの店に取られるのは、なんか嫌だった」
――三軒茶屋で自分のスタイルを築いて、そこから“大嫌いだった”熱海に戻ることになったキッカケを教えてください。
田中「三軒茶屋で『marunowa』を8年営業して、その頃結婚して子どもいたので、『子どもを熱海で育てたい』というのが夫婦の中でありました。というのも、保育園の待機児童問題がドンピシャでハマっていたんです。当時預けていた保育園も飲み屋街がある一角のビルの中みたいな感じで、『これはどうなのかな?』と思いながら僕はお店をやっていたし、妻も仕事をしていました。そういう中で、『いつか熱海で育ててもいいかな』と思うようになりました。
当時は、やっぱりどこかで『東京で商売をやっている自分がかっこいい』と思っていたんですよ。だからお店は残したい。でも子どものこともある。そんな中で、2020年を迎えてコロナがまん延し始めて。ロックダウンする直前の3月の最後の方に、家族だけ熱海に連れて帰ってきたんです。僕は1回東京に戻ってテイクアウトでお店を続けましたが、全然売り上げにならない。じゃあちょっと休んで熱海に帰ろうかなと思って、コロナ禍に何か月か熱海で過ごしたら、『今の熱海の生活、東京より悪くないな』って思い始めたんです。そこから『marunowa』を熱海に移転しようという流れになりました」
――人生の変化やコロナのタイミングが重なっていたのですね。
田中「最初は渚町というところで出して、まぁ自分も地元の人間だし、集客できるという自信はありました。あと、『三軒茶屋のやつが戻ってきてお店をやっている』というのが、熱海の中でちょっと話題になったんですよね。何もベースがない状態でお店を出したら違かったと思うんですけど、三軒茶屋でやった実績で、『親父だ、おじさんだ』とかは関係なく、“僕個人”として熱海の人が評価してくれるようになったのを感じました。だから、1回熱海の外に出て自分で何か挑戦してみてよかったと思います。多分それがなかったら、見えるものもまた違ったと思うし」
――現在の場所に移転した理由は。
田中「それは立ち退きが理由ですね。でもお店を大きくしたいという思いはあったので。その時にお寿司屋の女将さんが、今の物件(喫茶店『加奈』)が空いていると教えてくれて。『加奈』さんは、熱海の人は誰しも知っている有名な場所でした。そのままの骨組みが全部残っていて、カウンターのタイルも全部そのまま。ここは本当に、熱海中で狙われていたナンバーワンの物件だと思うんです。三面道路だし立地もいい。ダメ元で家賃を聞いたら払えないこともないぐらいだったので、挑戦してみようと思いました。何かやりたいことをやるのに、『これがもう年齢的に最後かもしれない』と考えると、『これはやるべきかもしれない』と。それから、この物件が海鮮丼とかスイーツの店に取られるのは、なんか嫌だった」
――海鮮やスイーツは熱海の観光スポットになっていますよね。
田中「今、熱海全体がそういう商売になっていっている。自分としては、それだけになるのはどうしても嫌だったんですよね。だったらもう自分がやるしかないかなと思って。何か僕たちじゃなきゃできないことをやろうと。それ以外のことは他の人にやってもらって、何のために商売をやっているのかというのをいつもスタッフと共有して、『僕たちにしかできないことをやり続けることが大事だ』と日々思っています」







DIME MAGAZINE
















