
妊娠中は(胎児への影響を避けるため)お酒やカフェインを多く含むドリンクを避けたほうがいいいことはよく知られている。だが刺身や寿司などの生もの、生卵なども摂取を控えるよう推奨されていることは、(特に男性には)意外と知られていない。これは妊娠中に免疫力が落ち、食中毒のリスクが高まるためだ。生魚に含まれ、妊婦から子宮内の胎児に影響を及ぼす可能性があるといわれる食中毒菌・リステリア菌は食中毒の感染率が20倍になるという報告もある。妊娠による体調の変化に加え、こうした食事の制限が、妊娠中の女性の大きなストレスになっている。
妊娠中の女性も安心して食べられる、火を通したお寿司「加熱寿司」
だが最近は、”妊娠中でも安心して食べられる火を通したお寿司”「加熱寿司」(かねつずし)というものがあるという。調べてみると、開発したのは、自身も妊娠中にお寿司が食べられないことに苦しんだ女性。加熱寿司の開発を決意させたのは、SNSでの問いかけがきっかけだったという。開発者の渡邊愛氏に、開発の経緯を詳しく聞いた。
妊娠中にお寿司が食べたくて、「寿司 妊婦」を検索し続けた
渡邊愛氏はもともと食べることが大好きで、日清食品株式会社に就職。営業・海外駐在・マーケティングなどを経験する中、第一子を妊娠した。その時、お寿司を食べられないことが意外なほど大きなストレスになったという。
「街でもSNSでもお寿司ばかり目に入り、何度も『お寿司が食べたい』と叫んでいました」(渡邊氏)。鮮度が高いものなら食べてもいいともいわれるが、赤ちゃんに万一のことがあったらと思うと我慢せざるを得ない。「妊婦 お寿司」で検索し続けても食べられるお寿司はヒットせず、日に日にお寿司への欲求は膨らんでいった。思い余った渡邊氏は、他の妊婦はどう思っているのかを知るためにXで「【妊婦さんもOK!お寿司セット】があったら買いませんか?」という問いかけを発信。
すると、「妊娠中はお寿司が食べたくてノイローゼになりそうだった」「そんなお寿司があったら妊娠中も頑張れる」「どうかどうか商品化してほしい」など、予想以上の強い共感の声が寄せられた。渡邊氏はそれらの声から、「これは解決すべき社会課題のひとつだ」と確信。商品の開発を決意する。勤務していた日清食品を頼らず、自分で開発することにしたのは、思い描いていた加熱寿司には細かな要望が多く、採算を重視する大手企業では理想とするものが実現しないと予想したためだ。
渡邊氏は妊娠中から産後にかけて、清澄白河の「やよい寿司」と二人三脚で個々のネタに合う最適な加熱方法を模索。試行錯誤の末についにメニュー化を果たし、期間限定で加熱寿司セットの販売を実施。テイクアウトを含めて約60食を販売し、さまざまなメディアで取り上げられ注目された結果、「オンライン販売してほしい」という声が全国から届くようになる。そこで、「自分の手で一から良質な素材を使って加熱寿司を作り、全国に届けたい」と考えるようになる。
開発に必要な機材を購入するため、2021年秋にクラウドファンディングを開始。目標金額の1,113%の支援金が集まった。2022年5月に日清食品を退職して加熱寿司の開発に専念。産婦人科医監修のもと、地元である福岡の寿司職人と加熱寿司を共同開発した。
加熱寿司の最大のポイントは、厚生労働省が提唱している「家庭で出来る食中毒予防の6つのポイント」に記載されている加熱基準「中心部分の温度が75°C以上」を満たしていること。さらに液体急速凍結機「凍眠(とうみん)」を採用し、60℃~10℃の菌が繁殖しやすい温度帯を素早く通過させ、より衛生的に食品を冷凍している。
最適なトレーを探し求めて、100社以上に打診
加熱寿司は渡邊氏の個人企業だが、通販に際しては山積する技術上の課題を解決するため、いくつもの大手企業が協力している。なぜ個人企業にそれが可能だったのか。渡邊氏によると、「こちらが作りたいものを言語化して明確に示し、泥臭くいろいろな企業にお声がけして探し続けただけ」だという。例えば、配送中も寿司をつぶさず、美しいまま届けられるトレーを作ることができるメーカーを求めて、100社以上に打診したという。
加熱寿司用のトレーを共同開発した廣川株式会社 九州営業所 エースパック事業部の所長 表江司氏は、「私のトレーメーカー魂に火を付けたのは、渡邊さんが6月23日にツイートされていた『資材たった1種類を探すのに40社以上に問い合わせをしている、要件が難しいとお断りされまくりですが、諦めません。』という行動力と決意でした」と振り返る。
「加熱寿司という選択肢がある社会」を目指したい
2022年11月に数量限定での一般販売を開始し、開始5分で完売を達成。現在までの累計で約6千食を販売している。筆者が意外に感じたのは、購入者の約7割を男性が占めているということ。つまりお寿司が食べたい妊娠中の女性本人よりも、そのパートナーからの注文が多いということだ。SNSでは妊娠中の女性に対する無神経な発言などが炎上することがよくあるが、それを聞いて少しほっこりした。
「女性に大きな負担がかかる妊娠中は、どうしても家庭内の男女のバランスが不均衡になって気持ちがすれ違いやすいですよね。加熱寿司があゆみよりのきっかけになって、『あの時、お寿司を食べたよね』という経験が後々の夫婦の絆になってくれることを願っています。たかがお寿司、されどお寿司なんです」(渡邊氏)
また妊婦だけでなく、病気の治療のため免疫抑制剤を服用していて、生ものが食べられない人からの注文や、生魚がまだ食べられない子ども達の初めてのお寿司、生魚は苦手だけどお寿司を食べてみたい外国人からの注文も多いとのこと。
「『妊娠したらお寿司は禁止』では無く、『妊娠したら加熱寿司』に。外国の方や抗がん剤治療中の方など、生ものが食べられない人も、皆がお寿司を楽しめるように。お寿司屋さんにも当たり前に『加熱寿司』という選択肢がある社会にしたいですね」(渡邊氏)
取材・文/桑原恵美子
取材協力/加熱寿司