まずは心を治すところから
アルコール依存症は人間性が壊れる病気だ。まず、心を治さなければならない。通所者の話を毎日聞いて、自分のことをポツリポツリと話し続ける中で、みんなお酒に関して同じような失敗をやらかしてきたという現実に直面する。そんな実感を通して通所者との共感が芽生え、喪失した人間性の回復というリハビリにつながっていく。
内村さんは言う。「そのうち『風が気持ちいい』とか『今日の青空は気分がいい』とか、『あの花はきれいだ』とか、言葉にするようになります。それはお酒のない穏やかな日常を繰り返す中で、壊れていた人間らしさが回復している証しです。ミーティングでは同じ話の繰り返しになっても、その内容はどんどん深くなっていく。
〝両価性〟といって、マックに集まるアルコール依存者の心の中には、二種類のまったく違う自分がいる。一方は『お酒を飲みたい自分』で、もう一方は『お酒を飲みたくない自分』。僕も未だにこの二つを自分の中に感じています」
まったく異なる二種類の自分。『飲みたい自分』と『飲みたくない自分』とは何か。そして、アルコール依存症者の回復の過程とは、具体的にどのようなものなのか。内村さんは自らの体験から、解説してくれる。
「僕は18歳から飲みはじめて、20歳のときに依存症と診断され、久里浜医療センターに入院しました。29歳まで断酒が続いたのですが、当時、僕はシステムエンジニアの仕事をしていて、やりがいを感じていたけど猛烈に忙しかった。深夜帰宅が続き、酒を飲んだら熟睡できるだろうと、一杯飲んだのがきっかけで、すぐに連続飲酒に陥っていました。
明け方まで飲んでも這いずるように出社していましたが、それも厳しくなって。休職したのですが飲酒は止まらず、会社に近いウィークリーマンションを自費で借りて。無断欠勤は会社に迷惑をかけるし、解雇の理由になります。『気分が悪いので午前中は休ませてください』とか、いろんなウソをついて、必ず会社に電話をしていたんです。ところがあるとき、朝まで飲んでいて、電話をしないといけないと思いつつ、意識を失ってしまった。
気が付いたら夕方の4時で、『やっちまった、やべぇ……』とあわてて携帯を確認したら、何の着信もなかった。『あー、会社はオレを必要としてないんだ……』。そう思ったとき、自分の中で何かがポキッと折れました」
会社を辞めて実家に戻り、久里浜医療センターに再入院したが、飲酒は止まらない。ある日のことだ。内村さんは言う。
「実家で閉じこもって酒を飲んでいると、母が包丁を手に持って部屋に入ってきて、『あんたを殺して私も死ぬ!』と。僕は『刺せるもんなら、刺してみろよ!』と、手に持った酒をラッパ飲みして見せた。母は泣きながら部屋を出て行きましたが、当時は『オレが苦しんでいるのに、包丁を持ち出すなんてひどいじゃないか』としか、思いませんでした。
母は断酒会の家族会に通い、『息子を手放せ、このままだと共倒れになる』と、アドバイスされたのだと思います。最終的に僕は実家を追い出されて。小さなアパートに移って貯金を食いつぶし生活保護を申請して。それでもお酒が止まらない。
『このまま飲み続けたら死ぬな……』。お酒が止まらず、死が迫っていると感じました。
『30代前半でまだ死にたくない……』。死を実感したときが、〝底つき〟だった気がします。お酒をやめる人たちと出会い、その人たちの〝群れ〟の中に身を置きたかった」
内村さんの〝群れ〟という言葉には、死なずに生きるための集団という凄みを感じる。内村さんは自助グループのAAにつながり、〝群れ〟の中にいる時間を増やすことで飲酒が止まった。内村さんの話は続く。
「お酒を止めたい人の〝群れ〟の中にいると安心感があった。徐々に人間関係も築けて、同じ問題を抱えるもの同士ですから、人には言えないドロドロした話も聞いてくれます。
母親に包丁を突き付けられた話もしました。最初は苦しんでいる息子に包丁を突き付けるなんでひどいじゃないかと、自分のことしか考えられなかったけど。何度もその話をしている中で、ちょっとずつあのときの母の気持ちがわかってきた。
当時、母は息子がお酒で壊れていくのをジッと堪えていて。でも堪えきれなくなって、何とかしようと包丁を取り出して。母は我が子のお酒が止まってくれればと必死だったに違いない。泣きながら部屋から出て行った母親の気持ちを察すると、どれだけ傷つけてしまったか。ミーティングで体験談を繰り返す中で、そのことに気づき語れるようになって。
もう、母親をそこまで追い込みたくない。お酒で仕事への信頼を失い、心が折れる苦しみを味わうのは嫌だ。断酒の〝群れ〟の中にいると、自分への戒めを見返すことができる。『飲みたくない自分』に体重がかかった軸足を、さらに強く踏みしめることができるんです」
復帰後は事務の仕事に就いた。10年ほど前に知人から横浜マックの話をもらった。
軸足を置く「飲みたくない自分」。それをさらに強く踏みしめるには、お酒で迷惑をかけた人の気持ちをおもんぱかること。そしてもう一つの大きな要素を内村さんは語る。
「なぜ、心や体や家庭や周りを壊すまで、飲まざるを得なかったのかということです。何かの理由があるはずで、わかりやすい例ではDVとか親の離婚とか、依存症者は幼少期に心に深い傷を負った人が目立ちます。自分で自分の心の傷を癒すため、お酒は都合のいい痛み止めだったのではないか。どこでも手に入るお酒は手っ取り早いし、自分の好きなタイミングで使えます。
自分の中の生きづらさを見つめ、ミーティングでそれを言葉にして自分の中で整理をする。自分が壊れるほど飲酒をする根本の原因を、自分で理解できていれば、社会復帰してストレスで苦しくなったとき、お酒を飲むことを思いとどまらせる大きな力になります」
近年、若い人のアルコール依存症者が増えていると内村さんは言う。「5~6年前、研修を受けたとき、アルコール依存者の平均寿命は52歳と聞きました。近年はアルコール依存者が医療につながる仕組みの充実や、医療自体も進歩して、お酒で身体を壊して亡くなる人は減少傾向ですが。替わって増えているのが事故や自死です。
アルコール依存の原因は様々ですが、今はストロング系缶チューハイという、手っ取り早いお酒がありまして。この施設に来る90%ほどの人がこのお酒を飲んでいます。ストロング系はお酒が美味しいとかではない。ジュースのように口当たりがよくて安くて、手っ取り早く酔っぱらうためのお酒です。ワンカップの日本酒よりも、ストロング系缶チューハイなら若い女性も、手に取りやすい」
内村さんは今も月に何回か、自助グループの例会に出席している。彼は言う。
「断酒をして16年になりますが、自分の中の〝両価性〟は未だに消えません。『飲みたい自分』は完全にはなくならない。お酒は人の孤独が大好きです。多分、『飲みたい自分』の方は、僕を一人にさせようとしているのだと思う。だから、定期的に断酒の〝群れ〟の中に身を置く。常に『飲みたくない自分』の軸足を踏み固める」
横浜マックを退所して社会に復帰し、禁酒を続けている顔見知りも自助グループの例会で出会う。施設にいたときはスタッフと入所者の関係だが、自助グループでは同じ〝群れ〟の仲間だ。かつての通所者と対等な立場で話ができることが、嬉しいと彼は言う。
最後に内村さんは、断酒の極意を語った。
「断酒を決意するには〝底つき〟が必要だとよく言われます。〝底〟は人によって異なりますが、これ以上飲んだら死ぬ、本当にダメになる、ここが底だ、と信じたら、まず底に手をつく。そして脱出するぞと、立ち上がる試みを繰り返すのです」
アルコール依存症は前を見るのが難しい病だ。だから、手をつき立ち上がる自分の姿を繰り返しイメージしてほしい──
それは断酒中のアルコール依存症者から、お酒に問題を抱える人たちへのエールでもあるのだ。
『だから、お酒をやめました。―「死に至る病」5つの家族の物語』/根岸康雄(光文社新書)
構成/DIME編集部