石川数正の出奔とは
出奔という言葉で有名なのが、徳川家康の重臣である石川数正の出奔です。長年、家康に仕えてきた石川数正は、小牧・長久手の戦いのあと、家康のもとを去りました。
ここでは、石川数正の出奔について解説します。
■家康から秀吉のもとへ
石川数正は、徳川家康が今川氏の人質となっていた竹千代の時代から、長い間仕えていた重臣です。
天正12年(1584年)、家康は秀吉を倒すため、織田信長の長男・信雄と組んで「小牧・長久手の戦い」を行いました。この戦いの最中に、数正は家康に岡崎城(愛知県岡崎市)の城代を任されています。
戦いは8ヶ月におよび、両者の和解により終結しました。平和が訪れたものの、岡崎城代を務める石川数正が、豊臣秀吉のもとに出奔する事態が起こります。重臣で徳川家の軍事機密にも通じていた数正の出奔は、家康にとって大きな痛手となりました。
出奔した数正は、秀吉から和泉国(現在の大阪府南西部)の所領や河内国内に8万石を与えられたといわれています(※諸説あり)。
■出奔の理由は謎
石川数正は家康が幼いころから仕え、忠誠を尽くす三河武士の代表といわれていました。数々の戦いで功績をあげ、筆頭家老となった忠臣が徳川家康から出奔した理由は史料にも記述がなく、謎とされています。
数正は徳川方の使者として何度も秀吉のもとを訪れており、その能力を評価して自ら進んで出奔したという説や、秀吉が和泉国の所領などの条件を提示して誘惑したのではないかという説などがありますが、どれも憶測の域を出ていません。
また、数正は家康の長男・信康の後見人を努めており、信康が切腹を命じられたことに対して不満を覚えたために出奔したという説もあります。
和正はその後、文禄2年(1593年)ごろに亡くなるまで、平穏に暮らしたということです。
出奔には2つの意味がある
出奔は、逃げて行方をくらますという意味と、江戸時代の武士が失踪するという2つの意味がある言葉です。逐電と意味は似ていますが、逐電の方はより早く逃げ出すというニュアンスがあります。
類義語には家出と駆け落ちがあるため、一緒に覚えておけば出奔の意味がより深く理解できるでしょう。
出奔という言葉は歴史上、徳川家康のもとを去った石川数正の話でも有名です。数正が出奔した理由は、いまだに歴史上の謎とされています。
構成/須田 望