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「ナッジ」とは
公共政策やビジネスには、『ナッジ』と呼ばれる手法がよく用いられています。
うまく活用できれば、罰則や金銭的なインセンティブを与えずとも、人々を良い方向に導けます。ナッジの意味や、導入が進んだ背景を見ていきましょう。
■自発的な行動のきっかけをつくる手法
ナッジとは、人々が自分自身でより良い選択ができるように後押しをする手法です。語源となった英語『nudge』には、『そっと動かす』『肘で軽くつつく』という意味があります。
公共政策やビジネスにおいては、相手を望ましい方向に導く『ナッジ理論』が浸透しています。例えば、『健康診断には毎年行った方がよい』『税金は滞納してはいけない』と頭では理解していても、なかなか行動に移せない人は少なくありません。
自分自身で最適な選択ができない人に対しては、政策担当者がナッジで意思決定をサポートします。行動科学の知見に基づいたアプローチを行えば、強制することなく、望ましい行動変容を促せるのです。
■「ナッジ」が注目される背景
ナッジ理論は、リチャード・セイラー教授(シカゴ大学)とキャス・サンスティーン教授(ハーバード大学)によって提唱されたのが始まりです。
2010年には、イギリスの政府内に『ナッジユニット』と呼ばれる組織が設立され、公共政策へのナッジ導入がスタートしました。税制分野で、ナッジが大きな成功を収めたことをきっかけに、世界中で導入が進みます。
日本では、2017年4月に環境省を事務局とする日本版ナッジユニット『BEST(Behavioral Sciences Team)』が発足しました。その後、各省庁でナッジユニットが設立されています。
「ナッジ」の具体的な活用例
ナッジを活用すれば、罰則を強化したり、多額のインセンティブを投入したりせずとも、相手の行動変容を促せます。身近な具体例を見ていきましょう。
■身近なところで活用されている「ナッジ」
コロナ禍では、マスクの着用や三密の回避など、政府からさまざまな要請が出されました。実際、人々の行動を制限するのは容易ではなく、呼び掛けに応じてもらえないケースもあります。
ナッジをうまく活用した事例に、ソーシャルディスタンスを守るための足跡マークが挙げられます。レジ前の床に2m間隔で足跡マークを貼ったところ、消費者は無意識のうちに2mの距離を保つようになりました。そのほかにも、以下のような事例が報告されています。
- トイレにハエのイラストを描いたら、トイレの床を汚す人が減った
- 階段に消費カロリーの目安を表示したら、階段を利用する人が増えた
- 『自転車捨て場』の張り紙をしたら、無断で自転車を止める人がいなくなった
■省エネ分野や医療・健康分野の「ナッジ」
省エネの重要性は理解していても、つい電気の無駄遣いをしてしまう人は多いものです。環境省では、他人の情報を活用して人々の行動変容を促す『社会比較ナッジ』を実施しています。
例えば、月々の電力使用量の通知に、『省エネ上手な家庭の電力使用量』を表示すれば、「わが家は、他の家よりも電気の無駄遣いをしている」と感じざるを得ないでしょう。
また、健康診断やがん検診の受診率を上げるために、一部の自治体では、勧奨メッセージを送る取り組みを行っています。『〇〇市民の2人に1人が健康診断を受けています』というメッセージを受け取った人は、健康診断がごく当たり前である認識を持つようになるでしょう。
「ナッジ理論」の基本原則
ナッジを基にした行動科学の理論は、『ナッジ理論』と呼ばれます。ナッジの提唱者であるリチャード・セイラー教授とキャス・サンスティーン教授は、ナッジ理論を有効活用するための基本原則『NUDGES』を掲げています。
■メリットを与える「インセンティブ」
『インセンティブ(iNcentives)』とは、対象者の行動を促すために、メリットを示すことです。
ビジネスにおけるインセンティブは、仕事の成果に応じて支給される成功報酬を意味するケースが多いですが、ナッジでは金銭的なインセンティブで人々をコントロールすることはありません。
対象者に対し、『この行動をすればメリットがある』『しなければ損になる』と伝えることで、自分自身や社会全体にとって賢い選択ができるように手助けします。
■結果を提示し行動を促す「マッピングの理解」
『マッピングの理解(Understanding mappings)』とは、選択によって、どのような結果がもたらされるのかを示すことです。マッピング(mapping)には、『地図を作る』『異なるデータを同一項目として関連付ける』などの意味があります。
ナッジ理論では、専門的なデータを誰もが理解しやすい数値に置き換えたり、一目で分かるイラストにしたりして、行動の結果を可視化します。選択と結果がひも付けば、対象者は最適な選択をしやすくなるでしょう。
■初期設定の「デフォルト」
『デフォルト(Defaults)』とは、初期設定を意味する言葉ですが、ナッジ理論では推奨したい選択肢をあらかじめ初期設定にしておくことを指します。ビジネスでは、顧客の意思決定を企業が望む方へ誘導するために、活用されるケースが多いでしょう。
多くの人には、選択に無駄なエネルギーを使いたくなかったり、変化を避けて現状を維持しようとしたりなどの心理があります。例えば、オプション付きのサービスを契約する場合、推奨プランが設けられていれば、こだわりがない人はそれを受け入れる可能性が高くなります。
■良い行動へ誘導する「フィードバックの提供」
『フィードバックの提供(Give feedback)』とは、対象者の選択に対してフィードバックを与え、望ましい行動を促すことです。小まめなフィードバックをするうちに、ミス・改善点を自ら判断できるようになるでしょう。実際の事例を紹介します。
- 税金の滞納者に『この地域に住む人のほとんどは、期限内に納税しています。納税しないあなたは、少数派です』という通知を送る
- 電力使用量が多い家庭に『近所の類似する世帯よりも、使用量が〇%上回っています』というレポートを送る
デジタルカメラで写真を撮ると、撮影結果がすぐに表示される仕組みも、ナッジ理論を用いたものです。操作が問題なく行えているかどうかを利用者に伝えることで、正しく撮影されない事態を防げます。
■予測・対策をする「エラーの予期」
『エラーの予期(Expect error)』とは、多くの人が起こすであろうエラー・ミスを想定し、先回りして対策をすることです。
例えば、駅の自動改札機は『利用者はICカードの向きや表裏を間違えやすい』という前提で設計されているため、ICカードをどのような方向からタッチしても問題なく読み取れます。
また、休薬期間のある薬は、患者が誤って服用を続ける恐れがあることから、事前に偽薬(プラセボ)を用意するクリニックもあります。偽薬は、乳糖やでんぷんなどを固めて作ったもので、薬としての効き目はありません。
■良い選択肢を明瞭にする「複雑な選択の体系化」
『複雑な選択の体系化(Structure complex choices)』とは、複雑な選択肢を整理し、対象者にとって良い選択肢を見つけやすくすることを指します。いくらメリットを説明しても、選択肢が多くて複雑であれば、望ましい行動につながらないのが実情です。
例えば、多くの動画配信サービスでは、利用者が自分が見たい作品を探しやすいように、ジャンル・国・出演者などで検索できる機能を設けています。ECサイトではレコメンド機能を設け、利用者が検索した商品と類似の商品を表示する工夫をしています。
ビジネスでの「ナッジ」の活用方法
ナッジの導入は公的機関からスタートしましたが、現在はビジネスシーンでも取り入れられています。特に、マーケティングや営業との相性が良く、上手に活用できれば集客力の強化・売り上げの向上につながるでしょう。
■マーケティングで活用する方法
代表的なマーケティング手法の一つに、メールマガジンの送信があります。配信者数を効率的に増やしたいときは、ナッジ理論のデフォルトを活用しましょう。
会員登録の画面で『メールマガジンの受信を希望する』に最初からチェックを入れておけば、一定数の人はそのまま登録に進むと考えられます。
商品の購入・サービスの利用においては、『サンクコスト効果』を意識した戦略が有名です。サンクコスト効果とは、投資したコストがメリットを上回っても、投資を継続する現象を指します。
「ここでやめたらもったいない」という人間の心理に、ナッジを組み合わせたのが、以下のような戦略です。
- ECサイトの購入画面に『送料無料まで〇円』の表示をする
- ポイント数や会員ランクに応じたプレゼントを用意する
■営業で活用する方法
営業では、顧客に選択してもらいたいオプションを『推奨プラン』にする戦略が用いられます。スマートフォンや保険の契約など、選択肢が多すぎて選ぶのに時間がかかってしまう場合、顧客は分かりやすく整理されたプラン・提案を選ぶ可能性があるでしょう。
多くの人は、周囲と自分を比較したり、他人の例を参考にしたがったりする傾向があります。他社プランとの比較データや、導入の成功事例などを提示すれば、成約率アップにつなげられます。
サンクコスト効果を活用し、無料お試し期間を設ける手も有用です。利用者が「せっかくここまで使ったのに…」「やめるのはもったいない」と思っていれば、有料サービスの提案はスムーズに受け入れられるでしょう。