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宗教や人種を越えて東西の文化と経済を繋いだ「オスマン帝国」の繁栄から学ぶべきこと

2024.05.24

オスマン帝国vsマムルーク朝

オスマン帝国の次なる狙いは「紅海ーインド洋」ルートを握るエジプトのマムルーク朝でした。ところが14世紀当時は造船技術が飛躍的に成長した時代であり、ヨーロッパとアジアを結ぶルートは陸路よりも海路が重宝されるようになり、マムルーク朝が力を持ち、オスマン帝国との国力に大きな差が現れるようになります。

その一方、ジェノヴァは黒海ルートからシルクロードを目指すよりも、スペインやポルトガル、北アフリカなど西方へと拠点を移しており、オスマン帝国は容易にマムルーク朝を占拠することが難しい状況が続いていました。

ところが、意外な展開によりオスマン帝国にも大きなチャンスがやってきます。

16世紀、ヨーロッパの大国であったポルトガルがインド進出し、ポルトガルが持つ強力な大砲を前にマムルーク朝は敗北してしまいます。この1509年のディウ沖海戦をきっかけに、マルムーク朝はインド洋の交易を失い、国力が急速に弱体化していきます。

その一方、オスマン帝国にはドイツから銃などの武器が輸入され、武装化を着々と進めて戦力が増していきました。そして1517年、遂にオスマン帝国はマムルーク朝との戦いで勝利を収めることとなったのです。

オスマン帝国vsポルトガル

その後、インドの利権をめぐり、オスマン帝国とポルトガルは激しい争いが続きます。

当時、ヨーロッパ最強だったポルトガルと軍事的にも互角に戦えた大きな理由は、オスマン帝国がイタリアやギリシャから大砲製造の技術を積極的に取り入れたことが功を奏したからです。両国は幾度となく互角の戦いを見せますが、1566年になるとオスマン帝国とポルトガルは協定を締結し、インド貿易を分け合うことに合意するに至ります。

その後、オスマン帝国は東南アジアへと進出していますが、インドネシアのスマトラ島北部にあるアチェの国王はポルトガルの侵攻に苦しめられ、オスマン帝国に支援をお願いし、オスマン帝国がアチェを一時的に防衛したこともあったのです。

オスマン帝国の時代

16世紀のオスマン帝国は拡大を続け、バルカン半島や北アフリカまでの広大な土地を領土とし、さまざまな民族に対して融和政策を採用します。

たとえばギリシャやルーマニアなどのキリスト教徒の白人をイスラム教徒に改宗させ、優秀な人物を積極的に国の官僚や軍人に登用していきます。もちろんキリスト教徒からは反発もあったはずですが、それ以上に巨大なオスマン帝国の支配層になることを望み、協力する人が多かったとようです。

実際、オスマン帝国は軍の統率権においてイスラム教徒ではなく、キリスト教徒から採用しました。これはイスラム豪族の勢力を抑えながら、キリスト教勢力の協力を促すことで、両教徒を均衡に保ちながら国を繁栄させようとした意図があるのです。

また経済的な特徴として、オスマン帝国内を統一通貨とし、領域内に大きな経済圏を構築します。また領域外の他のヨーロッパ諸国よりも領内の関税を安くしたため、周辺地域は進んでオスマン帝国傘下になることを望んだようです。

こうして諸外国のモノ・ヒトが集中的に集まり、オスマン帝国はさらに繁栄していったのです。

オスマン帝国の滅亡

繁栄を極めたオスマン帝国が滅亡した理由はいくつかの要因が重なった結果です。

主な要因としては、まず政治的・軍事的衰退が挙げられます。17世紀から18世紀にかけて、内部の腐敗や無能な統治者による政治的混乱が深刻化し、行政機関の非効率化や官僚の腐敗も進行しました。

さらに、かつて強力だったイェニチェリ(常備軍)が時代遅れになり、新たな軍事技術や戦術に対応できなくなりました。

また経済力の衰退も大きな要因でした。オスマン帝国の経済は戦争による戦利品や農業に依存していましたが、ヨーロッパとの貿易競争や産業革命に遅れをとり、経済的に困難な状況に直面しました。さらに重税やインフレ、外国からの借金も国家財政を圧迫しました。

また領土の喪失と外圧も滅亡の一因です。18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国、オーストリア帝国、フランス、イギリスなどの列強との戦争で多くの領土を失いました。特に、露土戦争(1877-1878年)やバルカン戦争(1912-1913年)での敗北が決定的な打撃となりました。

19世紀には民族主義の台頭により、オスマン帝国内のさまざまな民族が独立を求めて反乱を起こしてオスマン帝国内の一体性が崩壊し、バルカン半島やアラビア半島の分離運動が帝国の弱体化を促進したのです。

そして第一次世界大戦(1914-1918年)での敗北が国の滅亡を決定的なものとしました。戦後のセーヴル条約(1920年)により領土の大部分を失い、オスマン帝国は事実上解体されました。その後、トルコ独立戦争(1919-1923年)によりオスマン帝国は正式に消滅し、新たにトルコ共和国が成立しました。

これらの要因が複合的に作用し、オスマン帝国は滅亡へと至ったのです。

おわりに

オスマン帝国の歴史に学べることは、帝国の繁栄から滅亡までの時間の経過だけでなく、キリスト教徒とイスラム教徒が宗教を超えて共存した国があったという事実ではないでしょうか。

特に近年、異教徒間の争いが目立つ中でオスマン帝国が示した国の姿は、21世紀を生きる私たちにとって大きな学びとなるはずです。

文/鈴木林太郎

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