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西洋が中国の豊かさを上回ったのはいつ?経済力で世界を席巻した明王朝の功績

2024.04.21

明王朝の貿易の歴史

明王朝の海禁政策についての話はやや複雑です。

実際には、明王朝はその長い歴史の間に何度も海禁政策の採用と撤廃を繰り返しています。

【海禁政策の導入】

明王朝の創設者である洪武帝(朱元璋)は、王朝の安定を図るために、外国との接触を制限する海禁政策を導入しました。この政策は、海外との交易を厳しく制限し、私的な海外貿易を禁止しました。その目的は、海賊行為の抑制と国内の経済力の強化、さらには政治的な安定を保つことにありました。

【鄭和の遠征と一時的な撤廃】

洪武帝の孫である永楽帝の時代になると、この政策は一時的に緩和され、特に鄭和の遠征(1405年から1433年)は国家が主導する大規模な海外交流の一例です。鄭和の航海は、公式に承認された国家事業として行われ、多くの国々との外交関係を築いたり、貿易を行ったりしています。鄭和の遠征は、中国明王朝の最も有名な海外探索活動で、1405年から1433年までの間に7回にわたり実施されました。鄭和は明王朝の宦官であり、船団を率いてアジア、アフリカ、アラビア半島のさまざまな地域へ航海しました。これらの遠征は、明王朝の海外への影響力を拡大し、国際貿易を促進することを目的としていました。

【航海の技術と影響】

鄭和の遠征船団は、大型の宝船を含む数百隻の船で構成されており、それぞれが高度な航海技術と詳細な航海図を用いて運航されました。これにより、当時の中国が持つ航海技術の高さが示されました。

これらの遠征は、中国の製品と文化を広範囲に広めるとともに、多くの国々との外交関係を築きました。さらに、シルクロードの海上版とも言える新たな貿易ルートの確立に寄与し、絹や磁器などの中国製品が欧州市場にも流通するきっかけとなりました。

【経済的影響】

鄭和の遠征により確立された貿易ルートは、中国の経済にとって大きな利益をもたらしました。豊富な外国貨幣の流入により、地方経済も活性化し、商業の発展が促進されました。これは明王朝の経済繁栄に寄与する重要な要素となりました。

【再びの海禁政策】

しかし、鄭和の遠征が終了すると、明王朝は再び海禁政策を強化しました。特に、外交的な失敗や内政の不安、海賊行為の増加などがこの政策の再強化の背景にあります。この海禁政策は、16世紀を通じて基本的に維持され、中国人による海外移住や海外との私的な貿易を厳しく制限しました。

【緩和と最終的な撤廃】

明末期には、実際の貿易需要と海賊行為への対応から、海禁政策が実質的に緩和されることもありました。そして、明王朝の滅亡後に成立した清王朝がこの政策を正式に撤廃し、広範な国際貿易を奨励する方向に転換しました。

したがって、鄭和の遠征時に一時的に海禁政策が撤廃されたとはいえ、その後明王朝は何度もこの政策を復活させており、完全な撤廃は明王朝が滅びた後のことです。

【銀の流入と経済活性化】

新大陸からの銀の流入も中国経済の繁栄に寄与しました。16世紀以降、アメリカ大陸からの銀が中国に大量に流入し、中国は世界の銀市場で中心的な地位を占めるようになります。この銀は中国での通貨として流通し、商業活動や市場経済の活性化を促進しました。

【明滅亡への道】

明王朝が豊かであった一方で、その富は徐々に政治の腐敗を生み出しました。高官や宦官たちが権力を私物化し、貪欲に富を蓄えることで政府の効率が低下し、民衆の不満が高まりました。さらに天災や疫病が頻発し、それに対する政府の対応が不十分であったため、農民の負担は増大しました。

1644年には、これらの不満が高まり李自成の率いる農民反乱軍が北京を攻略。政府の弱体化とともに清の勢力がこれを好機と捉え、明王朝は滅亡へと向かいます。

西洋が東アジアの豊かさを上回ったのは18世紀末

歴史学のイアン・モリス教授が過去の歴史における国のGDPを正確に測ることが難しいという課題を解決するために、世界銀行が作成・発表する人間関係指数(HDI)を活用した社会発展指数(SPI)というものを開発しました。

これによると東アジアが西洋に追い越されたのは18世紀末のことです。

つまり、中国・明の時代は西洋よりも豊かということになります。それにも関わらず17世紀に明が清にあえなく倒されたのはなぜなのか疑問が残ります。少なくとも明の軍事力が劣っていなかったことから、滅亡の原因は明の国内問題によるところが大きいと見られます。

実際、明が滅んだのは大規模な農民の反乱が原因といわれ、統治能力の欠如が結果的に国の崩壊へとつながったのです。

まとめ

明王朝はその経済政策と国際貿易の拡大により、一時は西洋を凌ぐ豊かさを誇りましたが、内政の腐敗などが原因で崩壊に至りました。その栄枯盛衰は、国家が直面する経済と政治のバランスがいかに重要かを物語っているのではないでしょうか。

以上、金融経済アルキ帖「中国・明が西洋以上に豊かだった時代」でした。

次回も宜しくお願いいたします!

文/鈴木林太郎

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