はじめに―中国・明とは―
中国の「明」王朝は1368年から1644年まで続き、中国史上でも非常に影響力のある時期とされています。明王朝は、元王朝の滅亡後に朱元璋(しゅげんしょう)によって建国されました。朱元璋は農民出身で、紅巾の乱という大規模な反乱を経て皇帝となり、洪武帝としても知られています。
明王朝の初期には、中央集権体制を強化し、科挙試験システムを復活させて官僚の質を向上させました。また、法律や軍事、経済政策が整備されました。
特に注目されるのは、永楽帝(えいらくてい)の時代です。永楽帝は洪武帝の子で、彼の治世中に首都を南京から北京に移し、故宮(紫禁城)の建設を命じました。また、永楽帝の時代には、鄭和が指揮する海外遠征(鄭和の七回航海)が行われ、アフリカ東岸やアラビア半島に至るまでの広範な地域との交流が行われました。
しかし、明王朝後期には、政治の腐敗、天災、農民の負担増大などが重なり、国内は次第に不安定になっていきました。1644年には李自成(りじせい)の率いる農民反乱軍によって北京が陥落し、明王朝は滅亡しました。その後、清王朝が中国を統一することになります。
文化的には、明時代は印刷技術の発展により、文学や学問が広く普及しました。また、磁器や絵画、建築などの芸術も大いに発展し、今日でもその遺産は高く評価されています。
中国が西洋よりも豊かな時代が続いた
実は18世紀まで中国は西洋よりも豊かな時代が続いたと推測されています。
たとえば明の時代には新たな税制である「一条鞭法」が導入されました。この税制は、以前の複雑で非効率な税制を一新し、農民が支払う税を金銭のみに一本化することで、徴税の透明性を高め、政府の収入を安定させる目的がありました。これにより、明王朝は経済的に安定し、豊かさを増すことができました。
この改革の主な目的は、税制を単純化し、徴税の効率を向上させることにありました。
【改革の背景と目的】
明王朝の税制は、従来、農民が稲米や布などの物品を納める物納制であり、また別に労役を要求する制度がありました。これらのシステムは地域によって大きく異なり、管理が難しい状況でした。さらに、物納や労役の要求は農民にとって大きな負担となり、しばしば不公平感を引き起こしていました。
一条鞭法は、これらの物納や労役を金銭納税に一本化することで、税の徴収を効率化し、公平性を高めることを目指しました。税金はすべて銀で代納するようになり、政府の収入が安定し、経済政策の透明性が向上しました。
【経済への影響】
一条鞭法の導入は、明王朝の経済に複数の面で影響を与えました。金銭納税の普及は市場経済の発展を促進し、銀の流通が増加しました。この結果、商業活動が活発になり、都市部での経済活動が拡大しました。