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「仏作って魂入れず(読み方:ほとけつくってたましいいれず)」とは、最後までやり抜くことの大切さを教えてくれることわざだ。仏像を作るのに関連していると分かるものの、正しい使い方を知っている人はどれほどいるだろうか。
本記事では、ことわざの意味・読み方をはじめ、由来や例文を解説する。類義語である「画竜点睛を欠く」の正しい意味を知りたい人も要チェックだ。
「仏作って魂入れず」とは?
「仏作って魂入れず」は、詰めが甘かったために台無しになることを表すことわざである。以下では、意味・読み方と由来を解説していく。
■ 意味・読み方
「仏作って魂入れず」を辞書で引くと、意味は以下の通り。
物事をほとんど仕上げながら、肝心な最後の仕上げが抜け落ちていることのたとえ。仏造って眼(まなこを入れず。) 引用:デジタル大辞泉(小学館) |
上記の通り、「物事がほとんど完成していながらも、重要な部分が抜けていること」を意味するのが「仏作って魂入れず」のことわざだ。「外枠だけ完成しても、中身がないのであれば意味がない」といったたとえの意味もある。
ちなみに、「魂入れず」は「眼を描き入れず」を意味している。そのため「仏作って眼を入れず」と表記しても問題はない。さらには「仏造って魂入れず」も別表記として可能だ。
■ 由来
「仏作って魂入れず」のことわざは、仏像の仕上げに由来している。仏像は、魂を入れなければただの石や木と同然だ。ちなみに仏像を作るうえでの魂を入れるとは、眼を描き入れることである。魂を入れていない状態では仏とは呼べない。最後の眼入れをして初めて仏像が完成する。最後までやり抜いてこその完成だという教訓となるのがこのことわざだ。
「仏作って魂入れず」の使い方
「仏作って魂入れず」は、最後の最後で手を抜いたがために失敗したことのたとえや、やり抜くことの大切さを伝える教訓として主に使用できる。
以下では、2パターンの使い方を例文とともに解説していく。
■失敗のたとえとして使用した例文
「仏作って魂入れず」を、失敗したことへの表現として使った例文は以下の通り。
・教育制度をいくら完璧に整えても、教える人材が不足しているのでは致し方ない。「仏作って魂入れず」とはこのことだな。
・駐車場付きの部屋を借りたが、まだ免許を未取得である。これでは我ながら「仏作って魂入れず」ではないか。
まず一つ目は、教育制度という外枠を整えたのは良いが、肝心の人材が足りていないことによる失敗を表現している。二つ目も、免許を持っていないにもかかわらず、駐車場付きの部屋を借りたという、まさに整えたのが形式だけだったという例だ。
■教訓として使用した例文
「仏作って魂入れず」を、最後までやり抜くことへの教訓として使った例文は以下の通り。
・「仏作って魂入れず」にならないよう、最後まで気を抜かず取り組もう。上辺だけの結果に終わっても仕方ないからな。
上記はまさに見せかけだけにならないよう、成し遂げることへの戒めを表した例文だ。主に文章の頭に持ってくると、教訓として使いやすくなると覚えておこう。
体制や方針が変わりやすいビジネスシーンにおいて、「仏作って魂入れず」の状態になることは少なくない。このことわざを戒めとして掲げている企業も多いことから、いざという時に使いこなせると重宝するはずだ。
「仏作って魂入れず」の類義語
肝心な部分が抜け落ちているという意味を持つのは、「仏作って魂入れず」のことわざだけではない。以下では、類義語を2つ紹介する。
■「画竜点睛を欠く」
「仏作って魂入れず」とよく並んで紹介されことわざが、「画竜点睛を欠く」だ。「よくできているように見えるが、肝心な部分が欠けていて完全とは言えない」といった意味を持つ。がりゅうと読まれがちだが、正しい読み方は「がりょうてんせいをかく」だ。
■「九仞の功を一簣に虧く」
「九仞の功を一簣に虧く」は、「最後にしてしまった過失から、努力が無駄になってしまうこと」を意味する言葉。中国古代の歴史書・書経にある、1杯の土が足りないために完成しないことに由来している。間違えやすい読み方は「きゅうじんのこうをいっきにかく」だ。