2064年の郊外における新たな交通手段
2064年の郊外では、「サバービリティ(Suburbility)」が新たな交通の中心となっていた。これは “Suburban”と “Mobility”を組み合わせた造語で、郊外地域の移動手段や交通システムを指している。完全自動運転車が広く普及し、そのほかにも広大な空を活かしたドローンタクシーや個人用飛行機などのエアモビリティによって迅速な移動も可能となった。また、郊外の自然環境が発達したグリーンベルト地帯には、サイクリングロードや歩行者専用道が整備されており、自然を楽しみながらの移動が促進されている。
都心と郊外の移動が効率的になるなかで、早く移動したい人と遅く移動したい人によって移動手段を選ぶことが可能となった。
早く移動する方法は、都市と郊外を結ぶ超高速トランジットシステム「メトロポリタン・エクスプレス」を導入しており、このシステムは最新のマグレブ技術を使用して高速で運行され、都心と郊外の主要なハブを数分で結ぶ。また、専用アプリを使用してリアルタイムで座席を予約し、待ち時間を最小限に抑えることができる。
その一方、あえて遅く移動する方法としては「スロー・トラベル・トレイン」という、郊外の美しい風景を楽しみながら移動できる列車サービスも好まれている。この列車は、快適な座席、カフェ、サウナ、図書室などの設備が整っており、移動中もリラックスして過ごすことができる。また途中停車もあり、地域の魅力を発見する機会も提供していた。どちらも設備の限られた完全自動運転車にはない特徴である。
2064年、不動産市場にも大きな変化が起きていた。それは都心と郊外の家賃逆転現象が社会に新たな動きをもたらしていたからだ。かつては都心の高層マンションに住むことがステータスとされていた時代が終焉し、現在では多くの人々が郊外の広々とした住環境を求めて移住を決意している。この背景には、移動の効率化によって都市のライフスタイルに影響を及ぼしたことが挙げられ、完全自動運転車での生活が一般的となった都心では、従来の住居の概念を変えた。多くの人々が移動を生活の一部として捉え、車内での時間を有意義に過ごすための工夫を凝らしたことで、都心の家賃が徐々に下落し、かつての住宅市場の構造変化を促している。
これは、完全自動運転車や高速トランジットシステムの発展により、郊外から都心へのアクセスが格段に向上したことが大きな要因だ。その結果、郊外の家賃が上昇し、都心の家賃が下落する逆転現象が生じており、この傾向は、人々のライフスタイルの多様化を反映している。
こうした数々の革新的な移動手段を生み出したのは、競争激しいモビリティ業界の先駆者たちだ。彼らは技術革新を推進し、環境への配慮を重視した製品を市場に投入することで、新しい移動の時代を切り開いた。モビリティ業界では、自動運転技術、電動化、コネクテッドカー、航空モビリティ、その他にも移動可能なエコハウスやモバイルホームの開発が進められ、都心での一時的な滞在や郊外での永住を可能にし、場所に縛られない持続可能なライフスタイルが新たなトレンドとして広がりを見せている。
なかでも最近注目を集めているサービスがある。
それが水上を移動する完全自動運転の電動ボートや水上タクシーだ。これは都市部の河川や運河、郊外の湖や海岸沿いでの移動に特化しており、水上移動の新しい選択肢を提供しつつある。
都心と郊外の喧騒から離れて水上でのアンビエントな生活を楽しむ人々のことを「アクアノマド(Aqua Nomads)」と呼ぶ。これは「水の上の遊牧民」という意味で、水上で自由に移動しながら生活する人々を表す言葉だ。
水上のアンビエントライフは都市の喧騒を背にした、まるで別世界のような静けさに包まれていた。水面に反射する夕日の光が、ゆったりとした時間の流れを感じさせる。完全自動の電動ボートでの移動は、まるで音もなく滑るようで、都市生活のストレスから解放された感覚を味わえた。
デッキに寝そべりながら、空と水面の境界がぼんやりと溶け合う夕暮れの景色を眺める。太陽光パネルから得られる電力で動く音楽プレーヤーからは、エリック・サティの「ジムノペディ」が静かに流れ、繊細で幻想的なピアノの旋律が、水上の生活にふさわしい穏やかな雰囲気を、アクアノマドの人々は好んだ。
また「フローティング・アート」という水上に浮かぶ展示空間では、現代アートやインスタレーションが展示されている。アートと自然が融合した空間は、訪れる人々に新たなインスピレーションを与えていた。
都市と郊外の家賃逆転現象が進む中、水上でのアンビエントな生活を楽しむアクアノマドの間では、家賃に対する新たな価値観が生まれ、アクアノマドが選ぶ水上の住居「アクアホーム」は、都心の高層マンションや郊外の広々とした住宅とは一線を画す存在である。
ロケーションの魅力、持続可能な設備、ユニークな生活スタイルを求める人々にとって、アクアホームの家賃は単なる住居費用ではなく、理想的なライフスタイルを実現するための投資と捉えられていた。
アクアノマドの中には、水上での生活を通じて、自然との調和や持続可能な消費を重視する人々も多い。彼らは、太陽光パネルや雨水回収システムなどのエコフレンドリーな設備に価値を見出し、それに見合った家賃を喜んで支払う傾向にある。一方で「アクアホーム」の家賃は、その限られたスペースと特殊な構造から、都心や郊外の一般的な住宅と比較して高額になる場合もある。しかしアクアノマドは、都心の喧騒や郊外の広がりとは異なり、水上でのプライベートで静かな生活空間の価値を重視しているのだ。
この世界では、家賃は単に住居の価格を表すものではなく、ライフスタイルの選択と密接に関連しており、アクアノマドの家賃に対する価値観は、持続可能で豊かな生活を求める現代人の姿勢を象徴しているのかもしれない。
2064年の都市と郊外の境界線は、徐々に曖昧になりつつあった。かつての都心部に広がっていた「都市の畑」は郊外へと拡張していたからだ。都市では限られたスペースを最大限に活用するため、屋内で多層式に作物を栽培する垂直農法技術が進み、一年中安定した生産が可能となっている。郊外の都市化が進む中で「都市の畑」が郊外にも導入されている。
そして、郊外では「サバービリティ・ファームズ」と呼ばれる新たな農業プロジェクトが始まっていた。この「サバービリティ・ファームズ」とは、郊外の広大な土地を活用し、都市の畑のコンセプトを取り入れた農園を展開している。ここでは、最先端のスマート農業技術が導入され、水や肥料の使用を最適化し、収穫量を最大化することを目指しており、地元住民が参加し、地域社会とのつながりを深めるコミュニティ農園も併設されている。
一方、都市部では、ビルの屋上や空き地を活用した小規模な畑が「ミニ・アーバン・ファームズ」として人気を集めていた。これらの畑では、希少なハーブや特別な野菜が栽培され、地元のレストランや市場に供給されている。都市の畑と郊外の畑の間には、持続可能な食料供給のための連携が生まれていたのだ。
そして、水上生活を楽しむアクアノマドは、「フローティング・ガーデン」と呼ばれる水上農園を開発していた。これらの水上農園では、魚と植物が共生するアクアポニックスシステムが採用され、水質の浄化と食料生産が同時に行われている。アクアノマドは、自らの生活空間である水上ホームと連携し、新鮮な食材を育て、持続可能な水上生活を実現していた。
またアクアノマドは、水上の畑を通じて、水質の浄化や水生生物の保護にも取り組み、アクアノマドにとっての「都市の畑」は都心のビルの間の緑のオアシスとは異なり、彼らの生活哲学である自然との調和や持続可能性を具現化するものでもある。
このように「都市の畑」の概念が郊外や海上にまで広がり、やがて「都市の畑」と「フローティング・ガーデン」は、種や栽培技術の交換を始め、互いに学び合う関係を築いていく。郊外の「サバービリティ・ファームズ」も参加し、三者間で新しい農業ネットワークが形成されたことで、多様な形での農業が展開されている。
2064年の世界では、人々は健康的な生活を追求し、新たな食の未来を切り開いていたのである。
最後に、この時代の移動手段も劇的な変化を遂げている最中であることを付け加えておきたい。
革新的なモビリティの背景には、常に激しい企業間の競争が存在している。
これらの企業の競争は、モビリティ技術の進化だけでなく、結果的に社会の持続可能性や人々の移動の概念やライフスタイルの多様化にも貢献しているのだ。
モビリティ企業のイノベーションは、2064年の世界における「都市の畑」と「移動の未来」を切り拓き、新たな価値観を創造したのである。
文/鈴森太郎 (作家)