ビジネスシーンで幸せに働くことが注目されている。しかし、実際に現場で仕事をしている人の多くが不満と不安を抱えている。未来に希望を持ちながら「幸せに働く」ことははたして実現できるのだろうか。この問題を日本における「ウェルビーイング(well-being※)」や「幸福学」研究の第一人者である慶応義塾大学教授・武蔵野大学教授の前野隆司(まえの・たかし)さんに伺った。前編は幸せのメカニズムについて、ここでは幸福な状態を維持するための、具体的な実践方法について紹介していく。
※身体的・精神的・社会的に良好な状態。特に、社会福祉が充実し満足できる生活状態にあること
日本人の8割が持つ、不安症遺伝子
DIME wellbeing(以下D):幸福の基礎である「やってみよう」「ありがとう」「なんとかなる」「あなたらしく」という4つの因子について1回目で詳述しました。ただ、この因子を強化することは、「言うは易し」で、実際に実践してみようとすると、なかなか難しい。前野さんは「幸福と筋トレは似ている」と言ったが、まさにその通りです。
前野さん:そうなんですよ。そもそも、私たち日本人の8割の人が「不安症遺伝子」(セロトニントランスポーターS型)を持っています。そもそも、不安を感じやすい者が多いのです。それに、私たちは「楽しい!」とか「幸せ」などという言葉をほとんど口にしない文化を形成しています。
私が米国での研究中に実感したのは、周囲の人が「I’m happy to・・・」のような慣用句を1日に何回も言うこと。happyという単語を使うことが日常的に行われているので、脳が「私は幸せなんだ」と思い込み、実際に幸せになるのかもしれません。言霊(ことだま)は世界共通なのかもしれませんね。私も見習うようにしています。
D:パワーハラスメントや、モラルハラスメントを受けていたり、暴力にさらされていたり、不当に搾取されていたりすると、「私は幸せだ」という言葉を発せなくなります。そういう場合は、まず、環境を変え、我が身の安全を守ることが大切だと感じます。
前野さん:そうなんです。かつて、厳しい環境下にいた人が、渦中にいるときに私の本のタイトルを見て、「幸せも目指さなくてはならないのですか」とか「内容を読むのもつらい」と思ったことがあったそうです。環境はとても大切で、転職、離婚、親元からの独立などなど、苦しい状態から飛び出して、やっとわかることがある。それはご本人が決めることですが、環境を変える気力があるときには、行動する方がいい場合も少なくないと思います。
それから、これは相手によりけりですが、相手が何を不安に思っているのかを考え、対策を講じてみるのもいいと思います。
例えば、嫌な上司。高圧的な物言いをする人には「なんでこの人、そんな言い方をするんだろう」と客観視してみる。ものごとを俯瞰して考えると、相手と距離ができますから、その人の高圧的な原因のようなものが見えてきます。そのまま心の距離を置くというのも、余裕のない時には必要でしょう。
余裕がある人は、飲みなどに誘ってみるのもいいですね。話すうちに「ああ、この人は孤独なんだな」「役員を恐れているんだな」など原因がわかってくる。打ち解けてきたら「言い方を変えて、みんなで楽しくやりましょうよ」などと言ってみる。そうすると、意外と人間は変わっていくんですよ。
あとは「アサーション」という相手を尊重しつつ自分の意見を主張するコミュニケーション方法を学ぶといいと思います。これを身につけると、伝えにくいことが言えるようになったり、対等な立場で会話ができるなど、いい変化が起こってきます。
通勤時に公園を通ることの有効性
D:アサーションは、「主張訓練」ともいい、1950年代に心理学者のジョセフ・ウォルプ(米)が行動療法の一つとして開発したコミュニケーション方法。例えば、無理に仕事を押し付けてきた上司に対して、「忙しいのはわかりますが、私はどうしてもこの仕事を明日までに仕上げなければなりません。終わり次第着手しますが、いかがでしょうか」と言えば、相手を尊重できるなど、さまざまな会話例があります。
前野さん:はい。相手の立場や気持ちも理解しつつ、感情的にならず、理由を伝えることで納得してもらう。相手を尊重しつつ、自己主張できるようになるのがアサーションです。
様々な人種が暮らしているアメリカで、お互いのコミュニケーションの円滑を図るために広がっていきました。日本には、1980年代ごろから入ってきて、主に医療の現場で活用されています。
会話をしていると、どうしても相手の感情や過去の恨みなどに引っ張られてしまうという人がいます。常に客観視して、冷静さを保つことも、幸せな状態を維持するために必要なことです。
D:物事を客観視したり、怒りや悲しみなどの感情に支配されないようにすることも、なかなか難しい。すぐできる訓練方法は、「自然に触れること」だそうですね。
前野さん:例えば、「通勤時に公園を通る」ことは4つの因子を強化するために有効です。人類が誕生したのは20万年前と言われています。250年前に産業革命が起こり、都市機能が発展していく100年ほど前まで、人は自然の中で暮らしていたんです。
東京が今のようなコンクリートジャングルになったのは、終戦(1945〈昭和20〉年)以降のこと。人類の歴史の99.9%まで、森と共に生きてきたからこそ、自然を心地よいと感じるのだと言われています。
それに、自然の中にいると「同期のあいつより売り上げを伸ばす」とか「大学の同級生より年収を上げたい」などという欲求が小さなものに思えてくる。自分自身も、その他の人も自然の一部だと捉えるようになってくるんです。
自分の要求を叶えることを優先し、他人には無関心という人は、一時的に満足しても、虚無感に包まれてしまう。これを心理学では「自我の肥大化」と言いますが、自然の中に身を置くことは、それを防ぐことにもつながるのです。
なぜなら、大きな自然の中にいると、自分の小ささを感じられるから。「私も地球の一部であり、森羅万象の中では本当に小さな存在だ」と思うと、心がホッとしませんか? この安心感があるから、他者への配慮、感謝し、感謝されることの喜びにも気づくことができる。
また、自然の中にいることは、AIに代替されない人材になる一つの方法でもあるんですよ。AIには、自然を美しいと感じることはできません。自然の中に身を置き、人間らしい感性を育めば、AIの進化は恐れるものではないと、わかってくるのではないかと思います。
D:幸せの基礎力をつけ、鍛え続けた先に見えるのは、あなたが求める幸せな状態。やりがいがある仕事、信頼できる仲間、愛し合えるパートナーなどの関係が自ずとできてくるでしょう。それとともに、「自分もこの世の中全体も、少しずつ良くしていこう」と考えられるようになっていくはず。その状態を維持し続けた先に、富や名誉があるかもしれないし、それよりももっと大切なものが得られる可能性だってあるのですから。
前野 隆司氏
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授
東京工業大学卒業、同大学修士課程修了。博士(工学)。キヤノン株式会社、カリフォルニア大学バークレー校訪問研究員、ハーバード大学訪問教授等を経て慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。2024年4月より武蔵野大学に新設された世界初のウェルビーイング学部の学部長を兼務する。専門は、幸福学、幸福経営学。
前野さんの新刊
『幸せに働くための30の習慣: 社員の幸せを追求すれば、会社の業績は伸びる』(ぱる出版)
取材・文/前川亜紀