キッチンOGAWA創業から閉店まで
潤さんは19歳で新潟市内の繁華街にあったイタリアンで働き始めると、そこから懸命に働き続けた。
「働きすぎて当時の仲間からは『がむしゃらくん』って呼ばれてて。その努力も実って25歳で料理長になったんだけど、出世しすぎて周りからはいじめられたね」
潤さんの働いたお店は、新潟市内で当時数店舗を構えるイタリアンの名店で、25歳での料理長就任はずいぶん異例のことだったという。
その後、小川さんが独立し「キッチンOGAWA」を三条市でオープンしたのは29歳のとき。ちょうど奥さんの直子さんと結婚したときの頃だった。キッチンOGAWAの料理は好評を博し、いつしか地元の大人気店となった。そして潤さんは、開業してから続けていた小さなお店から、大きな店舗へと移る決心をした。
移転後のキッチンOGAWA。多くのファンがいたことから、こじんまりしお店から広い店舗に移転した
「ただこの移転が結局しんどかった。コロナが流行って計算が全部狂っちゃって」
そう話す潤さんは、これまでほとんど誰に話していなかった苦悩を口にした。
「大きなお店だったんで正社員もたくさん雇っていました。ただコロナでお客さんがパタリと来なくなって。パートの子に払うその日の給料も、当日パスタが20食売れて初めて渡すことができる。そんな状況でしたね」
そして今からちょうど1年前、とうとう店舗経営の首が回らなくなった潤さんは、お店を畳む決断をした。自己破産だった。
「最後はちょっとだけ残っていたローンのせいで、乗っていた車もなくなったね。自分が作った店なんで、自分の子どもを失ったも同然ですね」
そこから先の料理人としての希望はもう、なくなっていた。
「OGAWAのパスタが食べたい」に救われた
店を辞めてアルバイトで食いぶちを繋いで約半年が経ったころ、潤さんに転機が訪れた。それがフードバンクつばめ青柳理事長との出会いだった。フードバンクつばめに加わることになった潤さんだが、そのきっかけは自身の料理だった。
青柳さんは以前に「キッチンOGAWA」で食事をした当時のパスタの味を鮮明に覚えていた。――あんなに美味しいパスタは食べたことがない。青柳さんは当時そう思ったことを潤さんに伝えた。
潤さんのパスタを目当てに来る客は「宮町食堂」でも後を絶たない
そこからお互いの思いや近況について話をするうちに、潤さんは青柳さんが新たに始めようとしていたフードバンクつばめに興味を持つようになった。
「自分が子どものころにフードバンクという存在を知っていればもっと楽だったかもしれない。ただ、自分が当事者だった経験からして思うのは、本当に大変な人こそ、そういう救いの手があることを知らないんですよね」
その後、青柳さんが経営する会社を見学したり、フードバンクつばめ新拠点のDIYを手伝ったりするようになる。その中で、青柳さんが子ども食堂の運営も計画していることを知るようになった。そして、自身の幼少期からの経験と料理の腕を活かして、実際に貢献できないかと考えた。
「お客さんも青柳さんも、OGAWAのパスタが食べたいって言ってくれる人たちに俺は生かされてるんですよ。その恩返しもあるし、そして何より美味しいものを振舞うことで過去の自分みたいな誰かを救うって、間違いなく『俺しかできない』って思ったんですよ」
今となっては、より地域に密着したお店を作るため、和食を中心とした町食堂で腕を振るう潤さん。海鮮丼を作ったり、もつ煮込みを作ったりもする。だが、キッチンOGAWA時代のエッセンスも忘れてはいない。当時の名物だったパスタやアヒージョも提供する。
フードバンクつばめに救われた真の当事者である潤さんは、今度は困っている誰かのために料理を出したいと考えている。「宮町食堂」は、その事業収益でもって子ども食堂を開催するという新たな共助モデルに挑戦する先駆者だ。そんな挑戦に真っ向から挑む料理人潤さんを、筆者も微力ながら支えていきたい。
★宮町食堂
新潟県燕市宮町5-1-1
11:00-14:00/17:00-21:00(L.O.20:30)
月曜定休(その他不定休あり)
★これからの物語をつくるフードバンクつばめ“チームでこぼこ”のメンバー
文/玉橋尚和(タマハシナオカズ)
特定非営利活動法人フードバンクつばめ理事。高校卒業後、航空自衛隊に入隊。その後、慶応義塾大学、京都大学公共政策大学院、総務省を経て、現在は新潟県燕市に拠点を置くNPOフードバンクつばめ理事。総務省時代は新型コロナ対策や地方財政制度に携わる。2023年11月、日本初となる「食べれば食べるほど、楽しめば楽しむほど、誰かを救うことのできる」施設、「宮町食堂」と「つばめベース」の立ち上げに参画。
イラスト/齋藤和実