根性を重んじるリーダーシップでは今の時代、部下はついてこない。昭和的な指導者から現在までの変遷をたどりながら、今のリーダーに求められる才幹を二宮氏に聞いた。
スポーツジャーナリスト
二宮清純さん
1960年生まれ。五輪、W杯など幅広く取材する第一人者。広島大学特別招聘教授。大正大学地域構想研究所客員教授。『森保一の決める技法』など著書多数。
距離感は近すぎても離れすぎてもいけない
高度経済成長から失われた30年を経て、理想のリーダー像は、どう変わったか
製品にトレンドやライフサイクルがあるように、リーダーの形も時代で大きく変わる。
昭和・平成・令和と3つの時代で、スポーツ界ではどんな監督が支持されてきたのか。
「確かに時代によってスポーツの世界のリーダーも一変してきました。昭和を代表する監督といえば、東京オリンピックで女子バレー日本代表を率いて金メダルをとった大松博文さんでしょうね」(二宮氏・以下同)
〝鬼の大松〟の異名を持つ大松監督といえば、圧倒的なカリスマ性で選手を率いたトップダウン型のリーダー。何せ大松監督の著書のタイトルは『俺についてこい!』である。
「しごき」といわれるハードな特訓で選手を鍛え上げ、結果〝東洋の魔女〟と呼ばれるほどのすばらしいチームを作り、五輪優勝にまで導いた。その手腕は、良くも悪くも昭和的な監督の理想像を作ったといえる。
ちなみに大松監督は太平洋戦争史上最悪の作戦といわれたインパール作戦に参加し、極めて少ない生還者となった人でもある。
「財界に目を移せば、昭和の名経営者といえば、ホンダの本田宗一郎氏や松下電気(現パナソニック)の松下幸之助氏といった天才肌のリーダーが目立ちます。いずれにしても圧倒的なワントップ。家父長的かつ独創的なリーダーの下で、部下が鍛えられていった。ある意味、戦国武将的なリーダーと言えます」
戦後の焼け野原から「東洋の奇跡」といわれるほどの高度経済成長を達成するには、猪突猛進を促す強いリーダーシップが必要だった。〝俺についてこい〟型は、成長期だった日本にはリーダーの最適解であったのだ。
しかし、平成になるとムードは変わる。社会が成熟し始め、多様な価値観が目立ちはじめ「個性」が強く主張されるように。また円高ドル安の影響から資本や労働力が国境を越え、「グローバル化」も叫ばれた。
「バブルを頂点に社会が行き詰まり、戦後積み上げてきた価値観が揺らぎ始めた。過去を壊す『創造的破壊』が求められたのが、平成という時代でした」
二宮氏が、そんな平成の世を象徴するリーダーとして挙げるのが、Jリーグ初代チェァマンの川淵三郎氏だ。それまでの学校体育と実業団を中心に発展してきたサッカーを、ヨーロッパのように「地域に根ざしたスポーツクラブ」として再構築。日本各地にグラスルーツ型のクラブを生み出し、「スポーツを通じて幸せな国へ」とのJリーグの理念を具現化した。
「まさに昭和までの価値観を破壊し、創造したのが川淵さん。この時代は監督でも、創造的破壊を実践するリーダーが台頭しました」
その代表が、近鉄・オリックスの監督を務めた名将、仰木彬監督だという。
トルネード投法の野茂英雄や、振り子打法といわれた独特の打撃フォームをしていたイチローなど、周囲からは批判されていた選手の個性を仰木監督はそのまま生かし、伸ばした。両者ともメジャーに進み、グローバルなスターとなったのはご存じのとおりだ。
またもう一人、仰木監督と日本シリーズでしのぎを削ったノムさんこと、野村克也監督の名も平成を代表する監督として挙げる。
「気合いと根性で戦った野球を破壊。ID野球の名でデータと統計を取り入れた論理的な野球を創造したのがノムさんです。また選手とべったりつきあわず食事を一緒にすることすら少なかった。ボスとしての威厳はあったが、体育会的な上下関係は好まなかった」
[昭和のリーダー]〝俺についてこい〟型
東洋の魔女を率いた〝鬼の大松〟 大松博文
戦後から高度経済成長期の頃までは「苦労して這い上がる」のが美徳だった。スポーツも厳しく上から教えるスタイルが当たり前。激しい特訓で東洋の魔女を鍛え、東京五輪で金メダルを獲得した女子バレーの大松監督は、その代表だ。
[平成のリーダー]〝違いを認めて伸ばす〟型
野茂英雄とイチローを育成 仰木 彬
育成・再生の達人 野村克也
平成のスタートは1989年で、景気拡大期の真っ只中。「個性」が強く尊重され、「グローバル化」が時代のキーワードに。個性を尊重してメジャーでも活躍した名選手を育てた仰木監督、データや統計を取り入れたノムさんは、象徴的な監督だ。
写真:日刊スポーツ/アフロ
近鉄、オリックスで監督を務めた仰木氏は平成的リーダーの代表。