金融経済アルキ帖「フランス革命とナポレオン」
中世ヨーロッパといえば「絶対王政」という言葉があるように、国王は富と権力を独占していたイメージがあるのではないでしょうか。
しかし、実際にはヨーロッパ各地の国王の財政状況は逼迫していることが多かったのです。
なぜなら、中世ヨーロッパの国の構造は貴族がそれぞれの領地を持っていたため、国全体が公の領土ではありませんした。国王というのはあくまでも領地のまとめ役であり、国王直轄の領地はそれほど広いものではなかったのです。さらに貴族は税金を免除されていたため、国王の収入は直轄の領土からの税と関税に頼らざる得ませんでした。
こうした懐事情があったにも関わらず、中世ヨーロッパの国王は日々戦争に追われていました。
当然、戦費の大半は国王負担であり、財政を圧迫していました。
こうした状況を何とか凌ぐために、国王はヨーロッパ各地の商人からお金を借り、その結果、スペインのフェリペ2世は2度にわたって破産宣告(1557年,1575年)をしており、商人から借りたお金を返せない、今でいうデフォルト(債務不履行)を宣言しています。
デフォルトをして困ることといえば、信用がなくなるので次からお金を借りられないことです。
そうなれば、さらに経済状態は悪化していきます。いくら国王といえど、担保がなくなってしまえば誰もお金を貸してはくれないのです。
こうした国王のデフォルトによって引き起こされたのがフランス革命です。
フランス革命とデフォルト
フランス革命がもたらされた大きな要因は王室の財政破綻にあります。
当時のフランスは中世においてもヨーロッパの大国でした。しかし、歴代のフランスの国王も他のヨーロッパの国王と同じく、何度もデフォルトをしてきた歴史があります。
そのため、フランス革命前になると「タイユ税」という重税を国民に課していました。
これは、土地税と財政税の両方の性質を持ち、イギリスとの百年戦争中の特別税として課せられたものでした。ところが戦争終結後もフランスの主要財源のままでした。
このタイユ税は貴族や官僚、僧侶などは免除されていたことから、特に免税特権を持つ貴族に富が集中していきました。実際、全体の3%しかいない貴族が90%の富を独占していたといわれるほどの偏りを見せていたのです。さらに問題となったのが徴税請負人の不正です。これはローマ帝国をはじめとした歴代の王政でも同じことが起こっており、この不正が国家財政をさらに悪化させていきました。
また、フランス革命が勃発したときの国王ルイ16世は、大きな借金を抱えていました。
当時のフランスの国家収入が約2億6000万リーブルであったのに対して、借金は約30億ルーブルと膨れ上がり、信用のないフランスの利子は5~6%と高く、歳入の半分以上が利子の支払いに充てられる苦しい台所事情がありました。
こうしたフランスの財政状況をなんとか立て直そうと、ルイ16世はスイスの銀行家ジャック・ネッケル(以下,ネッケル)を国家の財務総監に指名します。しかし、皮肉なことに、これがフランス革命の引き金となります。
ネッケルは国家財政立て直しのために、徴税請負人制度を抜本的に改革します、具体的には、徴税請負人が国家にお金を貸すことを禁止し、不正を許さない厳しい監査体制を採用しました。
しかし、ネッケルの改革に対して、貴族や特権階級の人々は既得権益を奪われることに猛反発し、批判的なパンフレットを発行してパリ中に悪い噂を広めていきます。
こうした事態のなか、ネッケルは対抗策を打ち出します。それはフランスの財政内容の発表でした。現代では国家財政の公表は当たり前のように行われていますが、当時は異例のことであり、この国家財政の公表によってフランス全土に衝撃が走りました。
なぜなら、ネッケルによって、いかに貴族が浪費しており、庶民は貧しい生活によって虐げられているのか、具体的な数字で明らかになったからです。
こうしてネッケルは国民から支持を集めますが、ルイ16世は二度もネッケルを罷免します。
このルイ16世の態度にパリの市民は激怒し、ついにフランス革命が起こったのです。