雑草とは、未だその価値を見出されていない植物である
私が何も言わなくても、井西さんは新たな解決策を見つけてきた。
これは、研究テーマが先生から与えられたものではなく、自分のものになっている証拠だ。そしてその解決策は、私が考えていたこととは、まったく別の方向のものであった。
驚いたことに、井西さんは、もっともっと「ちいかわ」なものを見つけてきたのだ。
タカサゴユリの変種のヒメタカサゴユリである。
踊り子草に対して姫踊り子草、小判草そうに対して姫小判草というように、「姫」と名前につく植物は、小さくてかわいい植物が多い。ヒメタカサゴユリもタカサゴユリより小さいことから、「姫」と名付けられているのだ。
ヒメタカサゴユリは、高山地帯に適応したタカサゴユリである。
タカサゴユリの原産地である台湾は亜熱帯地方だが、標高の高いところでは雪も降る。高山地帯の風雪に耐えるために、ヒメタカサゴユリは背が低く進化したのだろう。
井西さんが調査をすると、栽培条件や環境条件にかかわらずヒメタカサゴユリは、安定して「ちいかわ」になることが明らかになった。
人間は好きなものに似るというが、井西さんは自身もちいかわを思わせるような学生である。しかし、ちいかわに掛ける根性は「ちいかわ」どころではない。真夏のビニールハウスの中でひたすら調査を続け、凍えるような寒さの中で、球根を洗い続けた。
その努力が、ちいかわの神さまに通じたのだろう。
何と、井西さんは育てていたヒメタカサゴユリの中に、目指すような清せ い楚そ でかわいらしい突然変異株を見出した。そして研究の最後に井西さんは、そのユリに妖精を思わせるかわいらしい名前をつけて、品種登録に出願するところまでこぎつけたのである。
その研究成果を紹介する地元の新聞の見出しは、「ユリの妖精 卓上にメルヘン」。
新聞とは思えないかわいらしいタイトルだ。こんなかわいらしいタイトルで紹介された雑草は、今までなかっただろう。
かくして、井西さんは、雑草を「ちいかわ」に仕立ててしまったのだ。
学生が卒業するときに、私は卒業記念品に言葉を入れて贈る。
私は井西さんに、「Like A Lily」と書いた。「ユリのように」という言葉である。
「ユリのように」と言えば、多くの人がイメージするのは「ユリのように咲く」や「ユリのように美しい」という言葉だろう。
しかし、井西さんが研究対象に選んだのは、雑草のユリである。
このユリは逆境に生える「雑草性」を持っているのだ。「あえて花を咲かせない」という戦略さえある。
井西さんは、タカサゴユリの雑草としてのすごさを明らかにした。そして、その雑草性を見事に活用したのだ。
雑草とは雑草性を持つ植物である。これが雑草学の考える雑草だ。
しかし、である。
「雑草とは何か?」という問いに対して、こんな言葉もある。
「雑草とは、未だその価値を見出されていない植物である」
これは学生時代にO先生が教えてくれた、アメリカの思想家エマーソンの言葉だ。
雑草は邪魔者扱いされている。しかし、どんな植物にも価値はある。その価値を見出されていないものが雑草呼ばわりされているとエマーソンは言うのだ。
雑草に価値を見出す研究はやっぱり面白い。
もちろん、雑草だけではない。
まだ、その価値を見出されていないものはたくさんある。
私は窓の外を見た。
もちろん、学生たちもまだ価値を見出されていない存在だ。
みんな、その価値が見出されるといいね。
私は冷め切ったブラックコーヒーを飲み干した。
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いかがでしたでしょうか?
雑草に生き方を教えられたと語る稲垣氏。「雑草学研究室の踏まれたら立ち上がらない面々」の中で頑張りすぎて心がポキンと折れてしまった学生に、氏がかける言葉は「人生で何が大切なのか」を教えてくれます。
図鑑や教科書には載っていない、雑草のスゴい生存戦略も必見です。
「雑草学研究室の踏まれたら立ち上がらない面々」
稲垣栄洋/小学館
文/稲垣栄洋(いながき ひでひろ)
静岡大学農学部教授。静岡県出身。岡山大学大学院農学研究科修了。博士(農学)。農林水産省、静岡県農林技術研究所等での勤務を経て現職。
『面白くて眠れなくなる植物学』(PHP文庫)、『生き物の死にざま』(草思社文庫)、『はずれ者が進化をつくる』(ちくまプリマー新書)、『大事なことは植物が教えてくれる』(マガジンハウス)、『子どもと楽しむ草花のひみつ』(エクスナレッジ)、『面白すぎて時間を忘れる雑草のふしぎ』(王様文庫)、『植物に死はあるのか』(SB新書)など、著書は150冊以上にのぼる。「国私立中学入試・国語 最頻出作者」1位に連続してなるなど(日能研調べ)小中学生にも愛読者が多い。