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10月28日は「群馬県民の日」。群馬県に在住する方にとっては馴染み深い記念日だが、同県にゆかりがないと「初めて知った」という方も少なくないはず。
そこで本記事では、群馬県民の日の由来や制定された理由、さらに地域が誇る歴史や魅力について詳しく解説していく。国が認定する群馬県の文化遺産も併せてチェックしてほしい。
群馬県民の日とは?
まずは、群馬県民の日の由来や、10月28日に記念日が設定された理由について見ていこう。
県民意識を高め、より団結して郷土を築くために制定された日
「群馬県民の日」は、県民が郷土の歴史や文化について理解と関心を深め、自治意識を高めながらより豊かな地域に発展させていくことを目的として、昭和60年に制定された日だ。昭和58年に開催された「第38回国民体育大会(あかぎ国体)」「第19回全国身体障害者スポーツ大会(愛のあかぎ国体)」によって、県民意識や団結力が高まったことが制定のきっかけとなった。
「群馬県民の日」制定にあたっては、昭和59年10月に県各界の代表者を招集した制定懇談会が開かれた。日にち・名称・制定形式などを慎重に検討し、昭和60年3月に「群馬県民の日を定める条例」を制定したのち、同年4月より施行された。
なぜ10月28日に決定したのか?
制定懇談会で話し合いが重ねられるなか、候補として挙がった日にちは以下の3案。
1.「群馬県」という名称が決定した(明治4年)10月28日
2.統廃合により群馬県がほぼ現在の形となった(明治9年)8月21日
3.県民が団結し功績を残した「第38回国民体育大会(あかぎ国体)」の開催日であった(昭和58年)10月15日
協議の結果、群馬県の歴史や文化に深く関連しており、過ごしやすい気候で記念事業などを実施しやすい日であることから10月28日が群馬県民の日になった
群馬県の歴史と魅力
次に、群馬県が誇る歴史と地域の魅力を見ていこうする。
「東国文化」の中心地として発展した地域
「東国文化」は、古墳時代から平安時代にわたって、現在の関東地方で発展した文化のこと。
古墳時代には「上毛野国(かみつけのくに)」、奈良時代以降は「上野国(こうずけのくに)」呼ばれた現在の群馬県には、東国文化の中心地として発展した歴史がある。当時の上毛野国が東国文化の中心地として発展した理由は以下の3つ。
1.三方が山と川に囲まれた豊かな自然環境
2.良質な粘土や砂鉄、馬を育てる牧草地などの恵まれた資源と土地
3.関東地方や東日本を結ぶ要地として移動や交易が盛んに行われた
群馬県では、これらの優れた特性を活かした統治が行われていたとされる。
1万基を超える古墳が発見されている
群馬県で3世紀から7世紀までに造られた古墳の数は1万3249基と、これほどの古墳がある地域は全国的にも珍しい。さらに、県内各地では100m以上の巨大古墳が多く発見されている。全長210mを誇る「天神山古墳(てんじんやまこふん)」は、ヤマト王権の大王(おおきみ)の古墳と同様の設計図が用いられたとされる。
高校生までの医療費が無償
群馬県では、全国に先がけた取り組みとして、平成21年10月より中学生までの医療費を無料化する「子ども医療費助成(子ども医療費無料化の制度)」を実施。この制度を利用することで、通院や入院などを問わず、子どもが中学校を卒業するまでは自己負担なく必要な医療を受けられる。なお、令和5年10月からは、この制度の対象範囲を高校生までに引き上げている。
国が認定する文化遺産
最後に、国が認定する群馬県の文化遺産を見ていこう。
埴輪 鶏
古墳時代、5世紀頃に造られた「埴輪 鶏(はにわ にわとり)」はその名の通り、鶏をモチーフにした埴輪だ。出土地は、群馬県伊勢崎市「赤堀茶臼山古墳」。日が昇るとともに夜明けを知らせる鶏は、当時の人々にとって光や希望を与える神聖な存在として奉られていた。こうした背景から、邪悪なものから身を守り、厄を避ける役割を担っていたとされる。
榛名神社
群馬県高崎市榛名山町に建立された「榛名神社(はるなじんじゃ)」は、1400年以上の長い歴史を誇る由緒正しき神社。御社殿に祀る神は2柱あり、火の神である「火産霊神(ほむすびのかみ)」、土の神である「埴山売神(はにやまひめのかみ)」が参拝者を迎える。古くから鎮火(ひしずめ)や五穀豊穣などのご利益があると言い伝えられている。
※データは2023年10月下旬時点のもの。
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