イギリス人の巧みな戦略
大英帝国の発展を経済・財政面で支えたのはイングランド銀行だけではありません。
対外的にはイギリス商人による狡猾といえる植民地政策がありました。
実際、イギリスは他国と比較して特別に人口が多くないにも関わらず、どのようにアフリカや中東、アジアやアメリカまで広大な植民地を維持できたのでしょうか。
もちろん現代の価値基準ではイギリスを含め多くの国々で奴隷制度は禁止されていますが、19世紀半ばまでイギリスでも奴隷制度があったように、当時はスペイン、ポルトガル、オランダなどが武力によって世界中を植民地にする帝国主義の時代です。
そのなかでも、イギリスによる植民地政策は狡猾といえる手法で植民地支配をしていました。
その代表的な戦略が植民地内の部族の対立を煽り分断させることであり、インドではヒンズー教とイスラム教の対立を意図的に利用します。
元来、インドは古代からヒンズー教を信仰するインダス文明発祥の地ですが、そもそもインドはヨーロッパとアジアに挟まれた地政学的な理由から、国の支配者が何度も変わっており、イスラム教徒も多くいます。とはいえインドでは宗教上の理由で対立が起こるほどの深刻な状況はありませんでしたが、イギリスは意図的にヒンズー教徒に対する優遇措置を実施します。
その結果、社会のエリート層はヒンズー教徒が多くなっていきます。
当然、優遇されないイスラム教徒の不満が高まり、両教徒の対立が激しくなったのです。
こうした対立をイギリスは巧みに利用していくことで、インドにおけるイギリスの支配が成立していました。
この対立は1947年にインドがイギリスから独立する際にも大きな影響を残しています。
当時、ガンジーがインドの独立運動をしていたとき、インド全体が一丸となることを望んでいましたが、両教徒は激しい対立後、ヒンズー教徒はインド、イスラム教徒はパキスタンと分離独立する結果となったのです。
現在でもインドとパキスタンは緊張関係にあり、かつて植民地時代に両国に通じていた鉄道も現在は遮断されたままなのです。
イギリスとアヘン戦争
そもそもアヘン戦争が起きた要因が何かというと、イギリスが対中貿易に苦しんでいたことが理由です。イギリスの紅茶の起源は中国の茶葉にあるといわれ、19世紀後半まで、イギリスはほとんどの茶葉を中国から輸入していました。
現在のように、インドでアッサムやダージリンを栽培するようになったのはずっと後のことなのです。
つまり当時のイギリスには中国に輸出するものがほとんどなかったといえます。
こうした貿易赤字を解消すべく、イギリスが考えたのが中国へのアヘンの輸出だったのです。
その貿易を方法は「悪の三角貿易」と呼ばれる下記の方法です。
(1)イギリス東インド会社がインドでアヘンを製造する
(2)上海などの繁華街にアヘン・サロンを開き、そこでアヘンを普及させる(販売する)
(3)中国で売ったアヘンを元手に、中国から輸入した茶の代金を支払う
当然、清政府はアヘンの輸入や吸引を禁止しますが、これに対してイギリスはそのタイミングを狙って清と戦争をして降伏させます。
結果的にイギリスは香港割譲し、上海など5港を開港させています。
つまり大英帝国の繁栄の裏側には、こうしたイギリスの黒歴史があったのも事実なのです。
おわりに
イギリスの繁栄とその裏に潜む戦略は、複雑で多様な要因から成り立っています。
狡猾なイギリス商人たちが事業を組織化し、資本力を駆使して大英帝国を築き上げた一方、蒸気機関によって産業革命を牽引し、経済力の向上を支えました。
また、植民地政策では分断統治と文化対立を利用して大英帝国の支配を固め、これが後の歴史にも影響を及ぼしました。
アヘン戦争などの出来事は、その時代背景における経済的利害や政治的緊張から生まれたものであり、大英帝国の歴史にはその光と影が混在しています。
こうした過去の出来事は、現代を生きる私たちにとって大きな教訓であると同時に、歴史を振り返りながら、より良い未来を築くための知恵として活かすことが重要ではないでしょうか。
これで今回の金融経済アルキ帖はおしまいです。
次回もお楽しみに!
文/鈴木林太郎