画像の歴史はiPadへ続く
画像の歴史に終わりはなく、テクノロジーと共に変化していきます。
例えば今回、日本で開催中の個展の最後に登場する「ノルマンディーの12ヶ月(2020~21)」は、220点のiPad作品を元に再構成された全長90mの大作です。
こうした新たなテクノロジーを取り入れつつ、ホックニーは決して変わらないものがあるといいます。それが素描です。
これは鋭い視点ではないでしょうか。
なぜなら絵画の魅力とは、画家の筆跡が全て作品として残っていることにあるからです。
おそらくホックニーが描くiPad作品に多くの人が興味を持つのは、デジタルであってもホックニーの手で描かれたことが分かるからではないでしょうか。
またiPadで描くことは、それ以前の絵画と決定的に異なる部分があります。
それは明るい光が使えることです。
内部の光を使えるという点において、iPadはゴシック教会におけるステンドグラスと共通する特徴があります。また当時のステンドグラスは多くの人に画像を通して情報を伝播させた、現代のSNSのような役割を担っていましたが、iPadで描き発表する行為とステンドグラスに同じ共通点があるのは面白い視点です。
その一方、テクノロジーの進化によって写真はデジタル編集が容易となり、転換点を迎えています。かつて究極の画像と思われた写真が、絵画以上に真実を語っている理由がないことが明らかな時代に突入したと、ホックニーは発言しているのです。
水の習作、アリゾナ州フェニックス (Study of Water,Phoenix,Arizona 1976)
ホックニーの絵画に登場する「鏡」は重要なモチーフです。
その代表作のひとつが「水の習作、アリゾナ州フェニックス」です。
プールの水は池と異なり多くの光を反射しますが、プールを描くために踊るような線を、そして水をどのように描くのか、多くの人がプールの水面が動く鏡のように感じた経験はないでしょうか。
そもそも鏡には反射像つくる効果があり、ときに鏡は現実世界をまるで絵画のように見せることがあります。しかし、そこに投影された像も反射した像も現実世界とは異なり、単純化された平らな世界となるでしょう。
絵画が二次元に置き換える手法だとすれば、鏡は関心の高いテーマとして、ホックニー作品の主題のひとつとなっているのです。
そもそも絵画に進歩はあるのか
ホックニーは絵画に進歩はないといいます。
正確には画家自身の成長はあっても、絵画そのものが進歩することはないという考えです。
例えば16世紀の画家で建築家のジョルジョ・ヴァザーリは「芸術家列伝」という書籍を出しましたが、そのなかで最初にジョット(1267年頃-1337)があり、全てはラファエロ(1483-1520)とミケランジェロ(1475-1564)で終わったと考えました。
しかしホックニーはジョットがラファエロやミケランジェロに劣るかといえば、そんなことはなかったと発言しています。ジョットもラファエロもミケランジェロもそれぞれに素晴らしい芸術家であることに変わりはないのです。
つまりジョットが壁画を描いたパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂は今でも鮮烈であり、当時の人々にとって現在のメディア以上に強い影響力を持っていたことは間違いないでしょう。
またミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画はアーチした天井に対して、巧みな短縮遠近法を用いて描かれていますが、そこに何かの絵が描かれると、人は保存しようとします。
現代人がカメラやiPhoneで撮影するのも保存しようとするからです。
しかし、画像によってその力には大きな差があり、すべての画像が同じ役割を果たすわけではないのです。
おわりに
ホックニーの絵画についての言及は、絵画の歴史を振り返り、現代の芸術に対する新たな議論を促す契機となるでしょう。絵画がどのような歴史を歩んできたのか、そして未来に向けてどのような可能性が広がっているのか、引き続き興味深いテーマとして追求されるはずです。
日本での展示の映像コメントでは、60年以上の歳月をかけて「画像」とは何かを追求してきたホックニーの「人生の大半を辿ることができる」と作家自身が語っています。
何より視点の変化の変遷を辿ることは、芸術家だけでなく、多くの人にとってアイデアの源泉となるのではないでしょうか。
参考資料
https://www.hockney.com/home
https://www.pacegallery.com/artists/david-hockney/
http://www.nishimura-gallery.com/
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/hockney/index.html
文/スズキリンタロウ (文筆家/ギャラリスト)