千利休の後の茶の湯
利休は不条理な切腹を命じられても命乞いすることなく、自らの美に殉じて命を断ちました。
そして、利休が切腹に向かう前に見送った人物が古田織部でした。
特に織部は利休亡き後の茶の湯を牽引していきます。
織部はアバンギャルドな歪んだ茶碗を好み、利休の時代の茶室が仄暗かったのに対して、織部の茶室は窓をたくさん付けるなど、新たな美である「へうげもの」が茶の湯の世界の頂上に登り詰めていきます。
しかし、そんな織部も徳川家康によって切腹を命じられ、命を断ちます。
その古田織部の弟子であり、茶の湯を引き継いだ人物が小堀遠州です。
織部が利休の端正な美に対してぐにゃっと歪んだ美を提唱しましたが、小堀遠州が提唱したのは「綺麗さび」です。また小堀遠州は王朝文化にも造詣が深く、オランダのデルフトの器を取り入れたり、帛紗にインド更紗を使うなど新たな美を提唱していきます。
その後、江戸時代になると、武家だけでなくお金を持つ商人も徐々に茶の湯に入っていきます。
また利休の次男、三男、四男がそれぞれ表千家、裏千家、武者小路千家を創設し、茶の湯の基準を定めます。こうして茶の湯に大きな3つの流派が形成されていくことになったのです。
明治時代の茶の湯
江戸時代が終わり明治時代に突入すると、茶の湯を支えてきた武家社会が終わりを迎えます。
そんな茶の湯を支えたのが数寄者と呼ばれる開国後に財を成した人々です。
数寄者が私財を投じることによって、それまで江戸の国々にあった茶道具を自由に組み合わせた茶会を行うようになります。
こうした流れがトレンドであった時代に異を唱えた人物が雑器に美を見出した民藝運動の柳宗悦です。
このように茶の湯にもさまざまな流れが生まれていきますが、なぜ茶の湯に多くの人々が美を見出したのかというと、そこには大きな時代の潮流があったからです。
当時、急に明治時代に突入したことで、日本は欧米列強の文化と競争していきますが、日本的な美の拠り所として茶の湯のこころに注目が集まり、明治や大正時代に国も意図的に「侘び寂び」を推し進めていったのです。
こうした社会的な背景があり、現代に生きる私たちが日本的な美意識の一つに「侘び寂び」を感じるのは、実は明治時代に形成された部分が大きいのです。
おわりに 現代の茶の湯
現代の茶の湯に女性のイメージが強いのは、実は戦後に花嫁修行の教育の一環として、茶の湯をする女性が爆発的に増えたことがあります。
こうして茶の湯にふれる人々が一気に増加する茶の湯の民主化が起きたことで、現代でも脈々と茶の湯が受け継がれているのです。
また最近は茶の湯のこころがビジネスパーソンにも注目されています。
多忙な日々を過ごしている方こそ、茶室という日常の喧騒と隔絶された、時間の流れをゆったり感じられる空間が必要なのではないでしょうか。
茶室は社会的な地位とは切り離された世界であり、ただ一人の人間として存在します。
肩書をはずしてフラットな立場で向き合う、茶の湯ならではの美意識やコミュニケーションを通じて、新たな出会いや刺激が得られるのではないでしょうか。
今回のアイデアノミカタは「茶の湯のこころ」として、その歴史について解説していきました。
どこか敷居が高そうな茶の湯の世界ですが、より面白く、より身近に感じて頂けたら嬉しく思います。
<参考資料>
利休遺偈 小学館文庫
重森三玲―モダン枯山水 小学館
日本美術全集 10 黄金とわび 小学館
文/スズキリンタロウ(文筆家、ギャラリスト)