いまは亡き接客マニュアルの想い出
その昔、某ファストフードチェーンでは、オーダー時、「御一緒に〇〇〇〇(←商品名)は、いかがですか?」とか、「ただいま、こちらの〇〇セットがお得になっています」という“サジェスト”というマニュアルがあった。「学生時代、バイトしていた」という人もきっと多いであろう、あのファストフード店だ。
何を隠そう、私も大学一年生のとき、実家と学校それぞれに近かった二店でバイトをしていた。いまは廃止されているようだが、当時はあの“スマイル”と同等に叩き込まれていたのが“サジェスト”だったのである。
人気店というのは、お客の多くがメニューの種類や値段を把握しているものだ。当該店も私が学生だった40年以上も前から、お客は品名やサイズにとても詳しかった印象だ。
なので「御一緒に…」はともかく、「こちらのセットがお得になっています」は、いま振り返ると余計な接客だったことがよくわかる。
それでも我々バイトが同様の“サジェスト”を鬼のように繰り返していたかというと、セットの販売期間中、店内でコンテストが行われていたからなのである。
テレビCMもしている売り出し中のセットをいくつ売るかという競争だ。バイトたちはみな、レジ脇に小さなメモを置き、そこに「正」の字を書きながら競っていたものだ。
優勝して貰えるのは当該チェーンのキャラクター人形。いまはわからないが、高い売り上げを誇るバイトは確実に時給が上がっていったし、なかには正社員へのスカウトも待っていた。同店の本社には当時、“青学閥”があり、私は青山学院の学生だったから、社員の“先輩”から何かと期待もされていたし、かわいがってもらっていた。それに応えようと必死に“サジェスト”していたのである。
顔から火が出そうになる想い出だ。合計金額の小銭だけを握りしめてきた子供にも、急いでホットコーヒーだけオーダーするビジネスマンにも、見るからにそれほど多くは食べられないであろう高齢者にも「御一緒に…」とか「いまなら…」とやっていたのだから。
お客のニーズに合わせたサービスは接客の基本中の基本。いくらマニュアルに記されていたとしても、いくら店内や社内で競い合っていたとしても、
●そのお客が、“いま”求めていることは“何”なのかを即座に把握し、
●急ぐべきときは急ぎ、
●時間に余裕がありそうなら、マニュアル通りではない異なるサービスを紹介し、
●臨機応変に対応すること。
それが飲食店における最高の接客ではないかと思う。
私が“おひとりさま”で入ったホテルのカフェレストランに話を戻そう。「テーブルでお会計できますか?」と尋ねた男性スタッフが、テキパキと会計作業を進め、最後、私にクレジットカードを返却してきた際に言ったのが冒頭の「お楽しみいただけましたか?」だった。「お味はいかがでしたか?」よりも、お客に負担をかけない質問であるうえ、空間やサービスを含めて問うているのがわかろう。
思えばコロナ禍での外食は“お楽しみ”には程遠かった。アクリル板に囲まれ、4人以下の人数を守る“マスク会食”や“黙食”が当たり前だったからだ。行きつけの店の馴染みのスタッフとさえ、できるだけ余計な会話をするのを避けていたあの頃……。
果たして、外食にやっと“お楽しみ”が戻ってきたところに、そのように尋ねられ、私はこれ以上ないという満面の笑みを受けべながら「はい、美味しくいただきましたし、素敵なひとときでした。ありがとうございました」と男性スタッフに伝えた。彼もまた満面の笑みだった。
最高の気分で“後半戦”の仕事に臨めた私にとって「お楽しみいただけましたか?」は珠玉の一言となった。
文/山田美保子
1957年、東京生まれ。初等部から大学まで青山学院に学ぶ。ラジオ局のリポーターを経て放送作家として『踊る!さんま御殿‼』(日本テレビ系)他を担当。コラムニストとして月間40本の連載。テレビのコメンテーターや企業のマーケティングアドバイザーなども務めている。