44歳でJ1・湘南ベルマーレの経営をリードする坂本紘司代表取締役副社長GM(筆者撮影)
Jリーグ発足30周年。元Jリーガーの経営トップが続々と
93年5月15日に東京・国立競技場で行われたヴェルディ川崎(現東京V)対横浜F・マリノス戦から丸30年が経過。Jリーグ初期の選手がクラブ経営に携わっている例も増えてきている。
筆頭と言えるのが、コンサドーレ札幌からチェアマンに転身した野々村芳和氏。Jリーグのトップが元Jリーガーというのは史上初で、年月の移り変わりを感じさせる。
今年から湘南ベルマーレの代表取締役副社長GMに就任した坂本紘司氏も選手出身の経営トップの1人。まだ44歳という若さにして、J1の老舗クラブをリードしているのである。
「昨シーズンの終了後、眞壁(潔=会長)さんと水谷(尚人=前社長)さんに呼ばれたんです。今季のチーム編成の話かなと思ったら、水谷さんが『俺、やめるんだ』と切り出されたんです。さらに『俺たちの中では、次にトップを託せるのは紘司だと思ってる』と言われて、ビックリしました。2人の真剣な表情を見ていたら『考えさせてください』とか到底、言える雰囲気ではなかった。『やるしかない』と思って、正式にそうなれば引き受けますと答えました」と坂本GMは神妙な面持ちで語る。
「湘南のバンディエラ」として選手時代を走り抜いた坂本GM
湘南の歴史を辿ると、95年のJリーグ初参戦当時は親会社・フジタの全面的な支援があり、資金面も潤沢だった。中田英寿、呂比須ワグナーといった98年フランスワールドカップ(W杯)日本代表など、数々のスター選手らを抱えられたのも、強固な経営基盤を誇っていた部分が大だろう。
だが、99年にフジタが撤退。経営難に陥り、平塚商工会議所青年部に所属していた湘南造園の社長・眞壁会長がチーム再建に長く奔走した。水谷前社長もリクルートや日本サッカー協会で業務経験を積み、2002年から眞壁会長の片腕として湘南を支えた。その「ビッグ2」からリーダーを託されるというのは、非常に大きな出来事。坂本GMは重責をひしひしと感じながら、2023年1月から代表取締役としての職務に就いたのである。
当の坂本GMも、2000年にジュビロ磐田から湘南に加入し、苦しい時代を生き抜いた生き証人。高校サッカーの名門・静岡学園時代はFWとして全国に名を馳せ、同期の中村俊輔(横浜FCコーチ)と真っ向勝負を演じるような花形プレーヤーだったが、プロの壁にぶつかり、再起をかけて湘南に赴いたのだ。
当初は攻撃的なポジションを主戦場にしていたが、2000年台後半からボランチにコンバートされ、「湘南のバンディエラ(1つのチームで長年活躍する象徴的存在)」として2012年までタフにプレーした。
「僕が湘南に来た当時は名門クラブ時代の名残があり、ドリンクやサプリメントが飲み放題だったり、大きいお風呂があって、環境的には恵まれていました。正直、僕ら選手は『クラブ消滅危機』の直後という実感がなかったかもしれません。でもその後は強化費が年々、縮小され、若い選手が多くなり、ずっと結果が出なかった。自分は試合に出られるようになりましたけど、2000年半ば頃までは『万年J2』のようなムードが漂っていたと思います。
2009年にクラブOBの反町(康治=JFA技術委員長)さんが監督になってからJ1に昇格できましたけど、僕自身は選手としてもっと早い時期から高い意識を持ってやっていたらよかったなと後悔することもありますね」と坂本GMは34歳で区切りをつけた16年間の現役生活を述懐する。
選手時代のアグレッシブなプレーは見る者を熱くさせた((c)SHONAN BELLMARE)