誤解されやすいESGをなぜ国連が推し進めたのか
――そもそもESGが注目を集めたのは2006年に国連が提唱した「責任投資原則(PRI)」にあります。投資する側は単に企業の財務情報だけでなく、ESGに配慮されているかを考えて投資しようという考え方が広まりました。そういえば、先生も国連に勤務されていましたね?
戸村先生 はい、元々、国連の専門官として、日本でCSR(企業の社会的責任:corporate social responsibility)ってなに?とか、コンプライアンスってなに?とか、日本のリスク管理・内部統制・CSR・人権啓発が社会に広まる前の、黎明期からこうした概念の普及活動してきたような感じです。
現在、私はESGやSDGs関連の普及啓発を目指して、経営者層向けの講演などを行っていますが、意外とシンプルなESGやSDGsを堅苦しく教えてしまったり、逆に変に「お手軽なテクニック」的に教えてしまっている実状を耳にすることがあります。
経団連関連の、いわゆる「使用者側(使側)」の主要団体などに指導にいくと、ESGやSDGsの出発点が世界人権宣言にあることを知らない経営者もいて、講演や指導で「人権」という言葉を出すだけで過剰な拒絶反応を示してしまい、「あいつは人権派~に違いない、経営者の敵だ」などと誤解されるような話も良く聞きます。
逆に、連合関連の、いわゆる「労働者側(労側)」の主要団体などに指導にいくと、人権の意識は高くて良いのですが、「経営視点での効率性と人権擁護の両立や協調が必要で、労働者側が自主的にプロとして成果を高めていく必要があります」と話すと、今度は「労働者に厳しいヤツ」などと誤解されてしまうのです。
私自身は労か使かのどちらかの肩を持って指導するのではなく、経営者であれ労働者であれ一般市民であれ、人間として大切なことをESG・SDGsにおいて講演してきました。そうした実績から、どちらにも媚びを売らない、「非武装中立地帯の公平な人」という立場を評価していただき、講演に招かれることがほとんどです。
国連・国際会議の裏話的なお話ですが、現在、ものすごいキーワードと化しているESGという言葉が出てきた背景としては、「なんか金を儲けて国を富ませる活動と人権活動の両立って大切だけど、なんかまとめづらいよね~。そうだ、各国でなんとなく最大公約数っぽくみんなが国際会議で賛同しやすいキーワード(Environment:環境保護への取り組み・ Social:社会人権問題への取り組み・Governance:ガバナンス強化への取り組み)が3つくらい挙げられるよね~。じゃあ、いっそ、3つのキーワードの頭文字をとって、「ESG」って単語を作って広めていこうぜ~」みたいな感じでまとまってきた、という経緯があると聞いたことがあります(※諸説ありますが、国連の中にいた私としては十分あり得る話だと思います)。
法律ではなくもっと良い社会・関係性を目指すこと
――2015年に年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が国連の提唱する「責任投資原則(PRI)」に署名したことで、他の日本の機関投資家も後に続き、国内企業におけるESGへの注目が一層高まりました。国連サミットでSDGsが採択され、サステナビリティへの関心が高まったことも、ESG化が加速しています。こうした傾向は今後も続きますか?
戸村先生 ESG化が加速……なんか難しい言葉が並んで、さも高度なことのように感じられますね~。ちまたによくいらっしゃる「シンプルなことをもっともらしく高尚に教える講師」の方々とか、肩に力が入って少し気負い過ぎている感のある受講生の方々のような、大上段の構えで突進しそうなこの質問っ!もっと肩の力を抜いてみましょう!
ESGもSDGsも、要するに、世知辛い世の中で、人間が勝手に各国で作った法令だけを見て違法でなければなんでもいい、ということではなく、社会・お互いにとって良い取り組みをする企業・団体・個人などを、社会的に後押ししてもっと良い社会・関係性を作っていこ~よ、というものです。
その中では、機関投資家や株主や金融機関が、ESGの観点で良き取り組みをする企業や経営陣を株主の権利行使の面でも融資や投資の面でも応援する。また、メディアも良き企業の良き取り組みを応援する。一般消費者や取引先が、不買運動や取引差し控え等なく、積極的にあなたの会社のサービスや商品を買うように働きかけたりして、良き企業をお金に直結する形でも社会的に後押ししていく「人権の理念に沿って作られた国際世論」としてESGが存在します。
ある意味、最低限のことを定めた法令よりも強力ですし、逆に、EUのESGに関するデューデリジェンス法制化などを除き、日本では少なくともESGをやれという直接的な法令がないかと思われますが、その分だけ、各企業の経営者の意志(意思)や経営姿勢が如実に経営活動に反映され、社会的な審判を仰ぐこととなるだけに、慎重に対応すべきところです。