コミュニケーション力、問題解決力、決断力、企画力、文章力……。ビジネスパースンが接触するメディアや書店などには、こうした“●●力”などの能力の身につけ方などを指南する言説が溢れている。また、人心掌握術や交渉術のような能力で相手を操ろう、うまく世渡りしようなどを指南するものも少なくない。
けれども、ChatGPTのようなAIが登場し、社会が大きく変わろうとするなかで、人の地位を能力によって決まるべきとする「メリトクラシー」は止めるべき、と説くのが連続起業家の孫泰蔵氏だ。彼の著書『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(日経BP)は、貴族が社会を支配する「アリストクラシー」、大富豪がお金で社会を支配する「プルトクラシー(plutocracy)」などに比べるとマシだけれど、人々を不幸にする原因は、人の能力によって不平等を減らすメリトクラシーにあると説く。
なぜメリトクラシーが人々を不幸にするのか?
<しかし、僕はメリトクラシーはやめたほうがいいのではないかと思うのです。なぜなら、「がんばればみんなできる、できるようになればみんな幸せになれる」というような平等主義は、いわゆる「絵に描いた餅」で、実際にはそんな社会はまったく実現しないどころか、むしろ公平性が悪化しているのが現実だからです。
僕はハッキリと言いたいと思います。
メリトクラシーはみんなを幸せにするどころか、最後にはほとんどの人が不幸になる社会なのだと。>(同書、194ページ)
なぜ、その人の出自や経済力で地位が決まるしくみよりもマシと思われていたメリトクラシーが人々を不幸にするのか。それは、パソコンやインターネット、そしてスマホやSNS、そしてChatGPTに象徴されるようなAIなどが長足の進歩を遂げていることと無縁ではない。
インターネットの登場以降、ビジネスの勝ち筋や産業構造などは大きく変わった。にもかかわらず、社会に人材を供給する教育システムは、依然として大量生産大量消費のころに確立されたスタイルを引きずったままでいる。
「機会の平等」「能力別学習」「実績重視」という3つを重視するメリトクラシーおよび、その基盤となっている近代の教育制度は、民主主義の浸透や資本主義の発展に伴う労働力を供給する役割を果たしたかもしれない。けれど、スマホやAIを日常的に使う時代のニーズには必ずしも応えられているのか。むしろ、このメリトクラシーこそが、産業構造の変化への対応を遅らせ、イノベーションが生まれることを阻害し、学校内ではいじめや不登校などの問題を生んでいるのではないか。孫氏は、そんな風に考えている。
↑孫泰蔵さん。普段はシンガポールを拠点にしているが、今回は書籍のプロモーションも兼ねて来日した。
「私自身は別に大学なんか行かなくてもいいとも思っていたんですが、泣きながら受験勉強し、浪人して東大に入り、メリトクラシー社会で資本主義をハックし、苦しい思いをしながら、誰が学校や会社をクソつまんないところにしたんだ、とか思いながら経営をやってきたんですね。大企業の方とも提携して仕事もしたんですが、やっぱりクソつまんないんです。あえて、炎上を恐れず過激な言葉を使いますが、クソなんです。
久しぶりにシンガポールから日本に帰ってきて講演とかをすると、名刺交換してくれって、ズラッと人が並ぶんです。この人たち、オレと名刺交換して何になるんだろうと、あの機械的に名刺を出す姿がゾンビ(ブードゥー教で、まじない師が生き返らせて操る死人。また一般に、呪術などによって生きた姿を与えられた死体:デジタル大辞泉)に見えるんです。ゾンビに名刺をはいはい、って渡している感じ。人類学者のデヴィッド・グレーバーさんは、ゾンビがしているムダで無意味な仕事を“ブルシット・ジョブ”と表現(『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店))していますが、そういうことが世界中で起きている。
なぜならば、日本の会社員の場合だと、雇用契約のなかに奴隷契約のような条項が入っているからです。会社から業務命令と言われたときには拒否権がない、って雇用契約書のテンプレートに入っているんです。ゾンビというのは、主体性を失って生きている状態なんですが、そんな奴隷状態で仕事をしているのって、やっぱりゾンビですよね。
では、どうして主体性を失って生きている状態、つまりゾンビでも平気かというと、そういう刷り込みを学校教育でしているんですね。これは日本に限らず、近代の教育システムが、そういうものなんです。なので、こういう教育システムがどうやって始まり、今のようになったのかを解き明かし、それを変えたいと思った。これが、この本を書いた動機のひとつです。
ちなみに、日本では、ゆっくりしたゾンビが多いんですけれど、シンガポールはゾンビ先進国で俊敏なゾンビが多い(笑)」
↑ゾンビの格好をして見せる孫泰蔵さん。日本の雇用契約書にある“奴隷条項”は、欧米の会社ではあり得ないと話す。
テクノロジーの浸透による経済や生活の変化、地球温暖化や貧困の問題などのグローバルイシューなど、社会が大きく変わっているにもかかわらず、メリトクラシーや教育システムのほうは古い時代からまったく変わっていない。
ただ、これも近い将来変わると孫氏は考える。それは、能力学習の究極的存在、AIの進化が著しいためだ。人間とAIは対立しない、うまく共存できる、と言われるが、ビジネスの世界では、どんどん人間がAIに置き換えられていくと孫氏は予測する。当然、人間の労働者は、退場を迫られる。ただし、孫氏はこれを「AIはメリトクラシーの最終兵器であると同時に、メリトクラシーの解放者」とポジティブに捉える。