■連載/あるあるビジネス処方箋
今回は前回に引き続き、賃上げをテーマに考えたい。今回は、大手士業系コンサルティングファーム・名南経営コンサルティング代表取締役副社長で、社会保険労務士法人名南経営の代表社員である大津章敬(おおつあきのり)さんに取材を試みた。
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大津さんは1994年から社会保険労務士として中小企業から大企業まで幅広く、人事労務のコンサルティングに関わる。専門は、企業の人事制度整備・ワークルール策定など人事労務環境整備。全国での講演や執筆を積極的に行い、著書に『中小企業の「人事評価・賃金制度」つくり方・見直し方(日本実業出版社)』など。全国社会保険労務士会連合会 常任理事。
中小企業の人材難は一段と深刻化する可能性
Q.昨年秋頃から現在にいたるまで賃上げに踏み切る企業が増えています。日本経済や今後の行方、各企業の業績を考えると、賃上げをすることは後々、大きなリスクになる可能性があります。人事の専門家として、今回の賃上げは必要だったと思いますか?
大津:必要だったのだろうと思います。今回の賃上げは直接的には物価上昇に対応するためのベースアップであるとされています。間違いなく物価は上昇し、従業員の生活は苦しくなっていますので、その対応は企業としても重要です。
しかし、個別の企業の対応を見ていると、別の側面が見えてきます。それは少子化の進展による人手不足が深刻なレベルになっており、人材確保のために賃上げを行い、採用競争力を高めたいという狙いです。最近、毎日のように初任給を大幅に引き上げるというニュースが報道されていますが、それも同じ話です。
以上はあくまでも我々の目の前にある国内の問題ですが、今回の賃上げの背景にはグローバルな問題も存在しています。それが、日本の賃金が諸外国に比べて安くなってしまったという問題です。先進国の中で日本ほどに長きにわたり、賃上げができていない国はありません。
少子化による労働力人口の減少が進んでいる我が国では、外国人労働者を多く受け入れる必要がありますが、諸外国と比べて賃金が安いという状況では世界的な人材獲得競争に負けてしまいます。その意味での国際競争力を強くしていくためにも、賃上げが求められています。
さらに言えば、それほどまでに賃金の差が生じた問題を政府としてどのように今後、是正するのか、を考えることも急務でしょう。
Q.なるほど。とはいえ、降格や減給ができないまま、賃上げを繰り返すといずれどうなるか。そこまで政府や企業は考えるべきであるのに、できていないように感じます。いかがでしょうか?
大津:日本では賃金の下方硬直性が高いとよく言われます。つまり、賃金を一度上げてしまうと、なかなか下げられないという問題です。確かに、裁判例などを見ても、降格などによって賃金を下げるという対応はなかなか認められていませんし、解雇も簡単ではありません。
そのため、経営者からは、このようないわゆる下方硬直性の問題がそのままになっている中で賃上げをするのはバランスがよくないという意見がよく聞かれます。とはいえ、先ほど述べたような環境においては、ある程度の賃上げは必要だったのです。
Q.これから、企業間の賃金格差が広がります。採用力の差も歴然としてくるのでしょうか。
大津:はい、その傾向は強まると思います。最近は転職によって賃金を上げていくという考え方が強まっていますし、実際に、転職で賃金が増加するというケースも増えています。そのため今後は、優秀な人材の多くが賃金の高い企業に流れていくことになるでしょうから、中小企業の人材難は一段と深刻化する可能性があります。その結果、経営が成り立たくなり、廃業や倒産、整理統合が増えるかもしれません。私は、それが現実味をおびてきていると考えています。
ですから、特に中小企業の経営や雇用のあり方を中小企業の経営者は当然として、国や社会でもあらためて考え直す時期に差し掛かっていると思っています。またこうした環境の変化は、中小企業で働く人にも大きな影響を与えることになるでしょう。いまよりも高い賃金を求めるのであれば、自らの技能を高め、労働市場における価値を上げることが重要となります。
国としても労働者のリスキリングを進め、成長分野への人材移動を進めるという方針を明確にしています。その影響は近い将来に出て来ることになるでしょう。
取材を終えて
現在の政権が賃上げを経済界に今後も求め続けると、大津氏が指摘する通り、廃業や倒産になる中小企業が多数現れうる。そのような事態になったとしても、賃上げの継続を求めるのか。
そこが、岸田政権が日本経済再生をどこまで真剣に考えているのか、の試金石になるとも言える。自民党は、中小企業を長年支持層にしているだけに難しいのかもしれない。だが、賃上げを継続しないと、社会が成立しない。日本企業や日本経済が失速しかねない。それで世界有数の少子高齢社会を維持できるのか否か。
大津氏のインタビューから、そんなことに思いをめぐらした。読者諸氏は、何を感じただろう。
取材・文/吉田典史