再発見!金融経済アルキ帖〜江戸幕府の外交と貿易〜
2023年大河ドラマ「どうする家康」がTwitterで世界トレンド1位になるなど好調なスタートを切りましたが、江戸時代の天下泰平の世が築かれた背景には優れた経済の仕組みがありました。
そこで今回は江戸時代編第2弾として江戸幕府の外交と貿易に注目したいと思います。それでは「再発見!金融経済アルキ帖」のはじまりです!
江戸幕府の鎖国と貿易戦略
そもそも「鎖国」という言葉が使われたのは江戸幕府が成立して200年近く経ったあとのことです。幕末になると「開国」の対義語として「鎖国」という言葉が使われ、閉鎖的な外交政策によって鎖国という言葉が西欧諸国から遅れたイメージとして定着していったようです。
また鎖国を語る上で欠かせない出島は「出島町人」と呼ばれる長崎の豪商25名が約4000両(現在価値で約4億円)を出資して、築造期間約2年をかけて総面積約15,000㎡(東京ドームの約1/3)の人工島が誕生(1636年)しました。
平戸にあったオランダ商館が出島に移り、以後200年間もの間、幕府唯一の対西欧窓口となったのです。
なぜ長崎が貿易拠点に選ばれたのかというと、徳川幕府誕生前の豊臣秀吉が亡くなったあと、当時の海外貿易の中心地が博多から長崎へと移ったからです。豊臣時代にはまだ活動していた宣教師の布教活動や大型船の運行も長崎の方が地政学的に便利であったことも選ばれた要因です。
タイオワン事件の発生(タイオワンとは台湾台南市安平区を指すオランダ語)
江戸とオランダは長く貿易関係にありましたが、出島が完成する少し前、1928年には長崎の大商人であり朱印船貿易家の末次平蔵政直の所有する船の船長がオランダ長官ノイツを人質にする「タイオワン事件」が起こります。
事件発生の背景には、16世紀ごろに台湾が中国から日本に送る際の貿易の中継地として注目されたことが挙げられます。各国の商人が中国で仕入れた生糸を台湾を経由して日本に輸出しており、当時のオランダは世界初の株式会社「東インド会社」の台湾南部の拠点として、1624年にゼーランディア城を築城しています。
その後、末次船2隻がタイオワンに入港した際、生糸の取引に絡んで事件が発生したのです。
このタイオワン事件により江戸幕府とオランダは約5年間交易が中断し、平戸のオランダ商館も閉鎖されます。
その後、徳川幕府も3代将軍家光の代になると徐々にオランダとの関係が修復され、西欧で唯一にして最大の貿易相手国としての関係が築かれていったのです。
江戸幕府による鎖国の狙いと外交政策
そもそも江戸幕府が鎖国をした理由の一つに欧州列強による貿易目的の侵略がありました。
現代のように世界貿易機関(WTO)や自由貿易協定(FTA)などの国際的な枠組みがない時代と考えれば、鎖国そのものの捉え方も変わるかも知れません。
また鎖国していたとはいえ、実際には下記4つの窓口を通じて貿易が行われていました。
【出島】オランダとの貿易の窓口であり幕府の管理で貿易が行われる。
【対馬】朝鮮との窓口として対馬藩が外交・貿易の仲介が行われる。
【薩摩】薩摩藩が琉球を支配したことで貿易が行われる。
【蝦夷】蝦夷地は松前藩による北方貿易が行われる
そのなかでも出島が諸外国向けに江戸の特産物を届ける窓口として機能しており、江戸時代の伊万里焼が国交のないメキシコで見つかったというエピソードもあります。
伊万里焼はどんな航路でメキシコに渡ったのか?
1647年に磁器の伊万里焼が中国船によりカンボジアに運ばれ、これが日本の磁器にとっての最初の輸出であるといわれています。
出島への来航が許されたのはオランダ船と公認された中国船のみでしたが、どんなルートで器が遠くメキシコに渡ったのでしょうか。
中国の商人は台湾経由でフィリピンにも伊万里焼を輸出しており、日本とスペインに交易はなかったもののフィリピンもメキシコもスペインの植民地であったことから、スペイン人がメキシコまで伊万里焼を運んだはずです。
つまり江戸は鎖国状態であったとはいえ、間接的でもすでに世界は海で繋がっていたということです。
江戸幕府がオランダを貿易相手国に選んだ理由
なぜ江戸幕府はポルトガルでもスペインでもなくオランダを貿易相手国に選んだのでしょうか。
その背景には当時の西欧の情勢が絡んでいます。
そもそも大航海時代の西欧は宗教戦争の真っ只中でした。
戦争には莫大な資金が必要であり、特にスペインは新大陸でポトシ銀山(現在のボリビア)を発見し、莫大な銀を採掘して戦費などの返済に充てます。
この銀は採掘所で銀貨になり、スペインだけでなくアジア貿易にも使われました。
またポトシなどの南米産の銀は奴隷(インディオ)の労働力で採掘されたことで安く流通したのです。
しかしスペインは莫大な資金を国内産業の育成に向けることがなく、西欧の次の覇権国はオランダに移り、首都アムステルダムは国際金融都市として発展していきます。
アムステルダムが経済成長した最大の理由は外国から商人たちが集まってきたからですが、同時期にスペインが「ユダヤ教徒追放令」を発令しており、商売や金融の才能を持ったユダヤ人が集まる大きな要因になったのです。
例えば「アムステルダム銀行」は世界で初めて口座上で貨幣の取引を行っており、貨幣が数字化された預金システムを構築しています。またオランダはニシン漁で使う造船や海運業も発展していきますが、こうした技術革新に必要な資金は主に「手形」を発行することで商人を支え、アムステルダムを中心にオランダは黄金時代を迎えることになるのです。
一方、江戸幕府がなぜオランダを相手国に選んだのかというと、それまで貿易相手であったポルトガルとの関係が悪化したことも要因です。ポルトガルは日本に対しての対日債務が膨らんでいただけでなく、イエズス会の会計管理がずさんであったことも主な理由です。
このように江戸幕府は世界情勢やパワーバランスを考慮した上で戦略的にオランダを選んだことが分かるのではないでしょうか。
おわりに
戦乱の世が終わり江戸時代が始まりましたが、町を復興させるためには商人の活躍が欠かせませんでした。特に江戸の商人の代表格である三井や住友などの豪商によって、経済のダイナミズムが生まれ世界有数の都市として発展していったのです。
歴史に「もしも」はないですが、仮に江戸幕府が鎖国政策を選択していなければどんな運命を辿ったのか、さまざまな解釈の余地があるからこそ、創作の題材として興味深いテーマであり続けているのかもしれません。
一方、鎖国があったからこそ平和な時代が長く続いたという江戸幕府の功績も忘れてはならないでしょう。
以上「再発見!金融経済アルキ帖」でした。
江戸時代編は今回で終わりです。
次回もお楽しみに!
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参考文献
・「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史9) 小学館
・大江戸見聞録 江戸文化歴史検定テキスト 小学館
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
著者名 / 鈴木林太郎