2023年大河ドラマ「どうする家康」が好調なスタートを切り、再び注目が集まる徳川家康。
答えの見えない乱世を生き抜いた家康の知恵は後世に受け継がれ、江戸という天下泰平の世をもたらしました。
先行きの見えづらい現代を生きる私たちにとって、江戸時代を知ることは生きる知恵やヒントが沢山あるかもしれません。
そこで今回は江戸時代が長く続いた要因でもある江戸経済に注目していきたいと思います。
それでは「再発見!金融経済アルキ帖」のはじまりです!
再発見!金融経済アルキ帖 ~現代につながる江戸経済の仕組み①~
江戸の代名詞に八百八町(はっぴゃくやちょう)という言葉があります。
これは江戸市中に多数の町が連なる大都市であることを意味しており、家康が1590年(天正18年)に関東に入部して以降、江戸は実に300年近く政治経済の中心地としての地位を保ち続けました。
ここで注目すべきは幕府の直轄軍は3万人以下に過ぎないという点です。ちなみに関ヶ原の戦いで家康率いる東軍に参加した武士が約10万人なので、幕府の軍事力よりも大きかったことになります。
意外なほど小さな軍事力しか持たない徳川幕府が全国支配を維持するために、特に石高の大きい外様大名である仙台藩の伊達家や加賀藩の前田家、長州藩の毛利家などを統制する必要がありました。そこで大名家が領地と江戸を交互に参勤交代をすることで徳川政権への忠誠の証を示す江戸参府が課されたのです。
また江戸と国元の道中では、宿泊や食事、日用品の購入などの消費行動にかかる費用は全て金・銀などの現金決済であり、大きな経済効果を生み出していたはずです。
こうして参勤交代により江戸は武家人口が多い都市となり、実際17世紀前半には武家人口が35万人を数えたと推定されており、生活インフラを支えるサービスを提供する商人や職人は武家人口以上いたと考えると、少なくとも70万人程度の人口を当時の江戸は抱えていたことになります。
その後18世紀初頭には江戸の人口は100万人を超えており、同時代の他の都市人口と比較すると、ロンドン86万人、パリ54万人、北京90万人であったことから、当時の江戸はすでに世界最大級の都市でした。つまり100万人が生きるための都市インフラが整備されていたことになります。
人が交流していたいうことはそこに経済活動があり、価値を表現するモノサシとして貨幣が必要とされたのです。
つまり貨幣は物々交換を円滑にするための社会的な役割として生み出されたのです。
金貨主導の江戸、銀貨主導の大坂
江戸時代は「東の金遣い」「西の金遣い」というように、主に江戸を中心とした東日本では金貨、大坂を中心とした西日本では銀貨の使用が幕末まで続いていました。
また東北などでは「銭遣い」の地域もあり、三貨による別の通貨経済圏が成立していました。
なぜ金・銀による別の経済圏が発達したのかというと、金と銀の産地自体が東西で偏っていたことと、江戸時代以前の室町~戦国時代にかけて、それぞれ産地近くで積み重ねてきた信用の蓄積があったからといわれています。
また銭は少額貨幣として日々生活する上で欠かせない役割を担っていました。
とはいえ商業が盛んになってくると、狭い国土のなかに別の通貨圏があると交換レートがあっても不便な部分もあったようです。
現代に置き換えると、関東では円、関西ではドル、東北ではユーロが使われているような状態といえるでしょう。
当時、なぜ金貨で通貨を統一しなかったのかというと、江戸時代の首都こそ江戸でしたが、経済力では上方の方が圧倒的に強く、幕府といえど「西の銀遣い」は無視できない強力な存在であったと推測されます。
また金・銀・銭の「三貨制度」は公定相場という幕府が決めた交換レートがあったものの、実際にはこの交換レートも日々変動しており、これは現代におけるドル・円などの為替レートと同じような原理原則が働いています。